世界で4番目の地震から学ぶ③ 【震災遺構小学校を訪れて考えたこと】

「世界で4番目の地震から学ぶ」の連載第3回目は、宮城県石巻市で2日目に訪問した門脇(かどのわき)小学校で考えたことについて紹介します。門脇小学校は現在、石巻市震災遺構として保存されています。

石巻駅から門脇小学校へはタクシーで10分程度でした。大人の入場料は600円(個人料金)となっています。朝日新聞の記事では、2024年8月8日で門脇小学校の入館者は10万人に達したことが取り上げられています。

入り口でもらったパンフレットによると、2011年3月11日、地震が起こってから学校にいた児童・教職員らは訓練どおりに日和山へ避難しました。地震から約1時間後に大津波が襲来して、津波火災が発生。門脇小学校の校舎は大きな被害を受けます。

南浜・門脇地区での犠牲者は500人を超えたと言われています。石巻市は震災の実態と教訓を伝え続けるため、被災した校舎の一部を震災遺構として残しています。門脇小学校は津波火災の痕跡を残す唯一の遺構です。

 

               

                    震災前の校舎の写真    津波火災を受けた校舎(2024年8月11日、筆者撮影)

 

順路に沿って歩き始めると、まず目に入ってきたのが津波の被害を受けたポンプ車と公用車です。

 

        

左の写真は石巻市消防団牡鹿(おしか)地区団第7分団の車両です。地震発生後、消防団員がポンプ置き場から消防車両を出そうとしました。しかし、シャッターが地震で歪んで開かなかったため、大津波に流され、南東方向に約60m離れた地点で大破した状態で発見されたそうです。

右の写真は北上総合支所の公用車で、現場作業へ行く際に日常的に使用されていたものです。当日は支所の駐車場に停めてあったため大津波に流されてしまいます。この支所は避難所になっていましたが、屋上を超える津波が押し寄せたことで、避難していた住民や職員の多くが犠牲になりました。

写真からも伝わりますが、展示スペースの入り口にあったこの2台を見ると、いかに津波の威力が大きかったのか、悲惨だったのかがわかります。しばらくここから動けない程の衝撃を受けました。

 

校舎の2階へ上がると被災した当時の教室が残されていました。

被災した3年2組の教室(2024年8月11日、筆者撮影)

 

写真は3年2組の教室です。説明パネルには、「児童たちが製作した玩具を使って、グループごとに遊びながら電気の仕組みを学ぶ理科の授業中だった。スペースをつくるために机と椅子は教室の後ろに下げていたため、地震の時は教室の真ん中に児童を集めて揺れを耐えた」と書かれていました。

この説明を読み、教室を見て、当時の子どもたちの様子を想像しました。被災したままの状態で残された教室は今も時が止まっているようで、あの日ここで何が起こったのか、実感を伴って伝わってきました。

門脇小学校を訪れ、石巻市を襲った大津波の被害を目にすることで、進んでいく年月の中であの日の記憶を留め、教訓として学んでいくことの重要性を再認識しました。それまでも東日本大震災の報道から、被害の大きさについて考えることはありました。しかし、今回石巻市を訪れ、語り部やタクシーの運転手、継承館のスタッフといった方々から伺った話は初めて知ることばかりでした。

筆者自身、1日目に訪れた津波伝承館で門脇小学校の津波火災について教えてもらったことから翌日に足を運ぶことを決めました。門脇小学校を訪問したことによって、今までの自分がいかに知らなかったのか気付かされました。また、記憶を風化させないためにも、このような遺構を残していくことの重要性も学びました。

小学校へ行く前日に伝承館で参加した語り部の方が講演で「津波に対する認識がない」と指摘されていたのが印象に残っています。今やネットを活用すればほとんどのことが調べられ、画像や動画を見ることができますが、現地へ行くことで生まれる人との交流や言葉から伝わってくるものに価値があるのだと改めて痛感しました。皆さんも気になったことがあれば現地へ行ったり、体験したりして自身の中で知識を深めていってはどうでしょうか。

参考資料:

石巻市震災遺構門脇小学校パンフレット

参考記事:

8月9日付 朝日新聞デジタル 「『津波火災』を伝える石巻市震災遺構・門脇小学校 入館者10万人に」