HSP 名称がつくことの喜びと不安とは

 生まれつき感受性が非常に強く、敏感な気質を持った人のことを指すHSP(Highly Sensitive Person)はここ数年で一気に知名度をあげた言葉ではないでしょうか。共感力が高かったり、考え過ぎてしまったりする人もHSP気質だと言われています。

 実は、私もHSP気質です。ドラマや映画などでの戦闘や殺人の場面を見ると、自分もその場にいるかのように感じて、恐ろしくなってしまったり、友人の悩みを聞いていたはずなのに、その悩みがあたかも自分にもあるように感じ、気持ちが落ち込んでしまったりすることが多々あります。

 高校生の頃、学校のイベントで足が不自由な方の講演を聞いた時のことでした。障がいの原因となった事故について講演者の方が話しているときに、聞いているだけのはずが次第に自分の足が動かなくなってしまうような感覚がして怖くなった記憶があります。しかし、それを友人に話しても「考え過ぎ」とか、「なんでそうなっちゃうの」と呆れられてしまいました。今でこそ、HSPで説明することができますが、当時は「何で分かってくれないんだろう」と、自分を理解してもらえないことに孤独を感じることもありました。

 何かの現象に対して、名前がつくことは本当に便利なものだと思います。HSPという言葉の普及で現に私は救われました。「ちょっと繊細なんだね」とかつては呆れていた友人から理解を得られるようになったり、身近な友人も実はHSPだということが分かったりと、孤独感は徐々に薄らいでいきました。

 しかし、そんなにも良いことばかりでもありません。「HSPは甘えだ」とか、「HSPは社会不適合者だ」とか、世の中から厳しい目で見られることも少なくありません。「なりたくてなっているわけではないのに」と思ってしまうのですが、それは当事者だから言えることであって、傍から見たらHSP自体が言い訳に過ぎないと感じられることもあるのでしょう。

 HSPという言葉は、人の性格分析に新たな概念を持ち込むことに成功したように思います。しかし、それが良いようにも悪いようにも捉えられてしまうのが現状です。大事なのは、「まずは理解すること」かなと思います。良い悪いを論ずる前に、中身を知った上で自分はどう受け止めるかを考えるべきです。

<参考記事>

日本経済新聞15日付朝刊「生まれつき感受性強い『HSP』、接し方の理解徐々に」