100年前の今日、築地小劇場が開場しました。演出家の土方与志や小山内薫らによって開設され、西欧で主流の近代的な演劇を確立しようとする「新劇運動」の拠点となった劇場。現在の築地駅付近に位置していました。劇団四季の創設者である浅利慶太の父鶴雄も、劇場の創立メンバーでした。
当時の築地小劇場(ウィキペディアより引用)
定員468人の平屋建て、グレーの内装や外装で統一された劇場は、ヨーロッパのゴシック・ロマネスク様式にならって建てられました。電気を使った世界初の照明室や、可動式の舞台が備わっていたことから「演劇の実験室」とも言われていたそうです。海外の作品だけでなく、久保田万太郎の「大寺学校」、森本薫の「怒濤」といった国内作品も多数上演されました。現在の文学座、劇団民藝、俳優座、文化座なども、ここから生まれた劇団です。また、小津安二郎監督作「東京物語」に出演した東野英治郎ほか8人の役者は、後に映画俳優として活躍しています。
まさに演劇の実験室であった築地小劇場ですが、創立された時代は大正デモクラシーのまっただ中。創立の前年、1923年には関東大震災が発生し、その混乱で朝鮮人虐殺事件が起こるなど、激動の時代でした。後に、劇場で演出家や俳優として活躍した千田是也も、事件に巻き込まれた1人です。
照井氏が書いた論文「彼岸の築地小劇場(序) ―大正デモクラシーから十五年戦争にいたる新劇運動―」によると、千田は東京の千駄ヶ谷で、自警団に朝鮮人と勘違いされ、殺されかけました。歴代の天皇の名前を言い、危機一髪で助かった彼は「千駄ヶ谷のコリアン」から千田是也という芸名を決めたそうです。この出来事を機に、彼を含め劇場の演出家たちは、殺伐とした社会を変えるべく劇場公演に力を入れたと考えられています。検閲による上演禁止や世間から浴びせられる冷たい視線にめげることなく、大正デモクラシーで人々が関心を高めた労働問題や政治問題にまつわる公演を続けたことで、劇場は次第に評判を呼ぶようになりました。1945年の東京大空襲で焼失するまで、現代演劇を上演し続けた築地小劇場。現在跡地に記念碑が建てられています。
現在の築地小劇場跡地(ウィキペディアより引用)
筆者の通う大学は千駄ヶ谷にあります。普段は落ち着いた雰囲気のある土地で、過去に殺人未遂事件があったと知った瞬間、身の毛がよだつ思いがする一方で、事件がなければ築地小劇場が誕生することなく、文学座など現代の劇団が生まれなかったかもしれないと考えると、感慨深いものがあります。当時の千田是也のように、激動の時代を生きる若者の1人として、今後の大学生活に励んでいきたいと思います。
参考記事:
6月12日付(4版)1面 朝日新聞 素粒子
参考サイト:
日本近代文学館 芝居は魂だ!築地小劇場の軌跡1924-1945
TOKYO ART&LIVE CITY 築地小劇場のこと(コラム)
国立国会図書館デジタルコレクション 照井 日出喜 論文「彼岸の築地小劇場(序) ―大正デモクラシーから十五年戦争にいたる新劇運動―」