本日公開の映画「ヤジと民主主義」。私は一足早く、11月30日に試写会へ行ってきました。試写会には本映画監督で北海道放送の山崎裕侍さんと映画監督の森達也さんがゲストで登壇されていました。
2019年7月15日、札幌市。安倍晋三元首相の参院選の街頭演説中にヤジが飛ばされました。ヤジを飛ばした男性と女性は警察に取り押さえられ、現場から排除されました。ヤジは排除すべき対象なのか?それから4年間、この問題を北海道放送報道部の取材班が追い、ニュース報道からドキュメンタリー番組と発信し続け、書籍化そして映画化に至りました。
筆者は上映劇場の1つである「ポレポレ東中野」の前を頻繁に通ることがあり、その時貼られていたポスターを目にし「ヤジと民主主義」の存在を知りました。さらに、大学の授業で「ヤジと民主主義」について山崎さんが講義され、その縁で試写会に参加できることとなりました。
作品を観て最初に筆者が抱いた感想は「情報が詰め詰めだな」というものでした。良い意味での表現です。情報量が多く、考えさせられる部分がたくさんあったため、自分の中で綺麗に何かにまとめることができませんでした。
今回はこの映画での中心となる男性と女性のした「ヤジ」について考えていきます。
ヤジは排除すべき対象なのでしょうか?
世界大百科事典第2版によると野次(弥次)とは、「政治の世界、とりわけ公開の演説会場、国会の各種委員会や本会議においては、通例、その演説の内容や所作、賛成・反対の討論に対して弥次と怒号がとびかう。弥次は対抗ないし応援の表現行為の一部であるが、他面では一種の即興的な批評行為でもある」と書かれてあります。
辞書でも法に直接触れるものではなく、賛成・反対の討論に対しての表現行為の一部とされています。また、公職選挙法が定める選挙の自由妨害違反(演説妨害)でも1人の国民から発せられた民意だとすれば該当しないと考えられます。
しかし「ヤジと民主主義」を観れば、演説妨害に該当しかねないと感じる人もいると思います。ヤジを飛ばした男性は「安倍やめろ」などの汚い言葉を、街頭演説中の元首相に投げつけました。人が話している最中にヤジを飛ばして良いのか、また中傷となりうる言葉を発言しても良いのかという2点です。
中国やロシア、そして北朝鮮でヤジを飛ばしたら徹底的に排除され、命の危険性も伴ってきます。いや、まずヤジを飛ばそうとする人がいないでしょう。今の日本では今回の北海道警のヤジ排除が問題視されたように国民による発言の機会がまだ認められています。周りの人を妨害したり、人の発言を妨げたりするヤジは許してはいけませんが、自分の顔を晒してまでヤジを飛ばしている人を排除してはいけないと筆者は考えます。
今回映画で取り上げられている男女は北海道を相手に国家賠償請求訴訟を起こしました。22年3月の札幌地裁判決は「2人の表現の自由などが違法に侵害された」と認定。23年6月の札幌高裁判決は、女性については表現の自由などの侵害を認めましたが、男性については警察官の行為は適法だったとして請求を棄却しました。原告被告ともに最高裁に上告している最中です。
トークショーの中で森監督がメディアと政治は有権者が変わらない限り変わらないと主張されていました。「今はSNSという自分たちのメディアがあり、それはヤジになれる。小さな声だが変えるきっかけになるかも」と話しました。「ヤジ排除問題」のように自分たちの意見を、国に対して公に言いづらくなってきている世の中ですが、発言し続けることを諦めてしまえば民主主義が崩壊してしまいます。私たちの民主主義を守るためにも、森監督が話されていたように小さなメディアで小さな声を届け、小さな声から大きな声にしていく覚悟が有権者の私たちには求められていると感じます。
参考記事:
・7日付、朝日新聞デジタル、「「ヤジは迷惑」、そう思うなら見て 北海道警の排除、映画で問う」
参考文献: