卒論が終わらないと愚痴るはずが 自分のオリジンを再発見

学生生活も残すところあと4か月。ありがたいことに筆者は社会人になることには比較的前向きで楽しみも多いのだが、もう卒業が目と鼻の先まで差し迫っているという現実は、なかなかに受け入れがたい。

また卒論の最終報告会まで1か月を切っているが進捗が思わしくなく、「朝起きたら突然卒論が全部書き終わっていますように」というくだらない祈りを捧げてから寝るのが最近の習慣になっている。当然朝起きても終わっているはずはないのだが、少しがっかりしてしまう自分がいる。

やらないで卒業見送りという事態になってはとんでもないのでやらなければいけないのだが、バイトに遊びに趣味にというわけで、正直全然やる気が起きない。こういう精神状態だと効率よく「こなす」ことばかり考えて、本来の卒論を書く意味が希薄になってしまう。

 

言い方が正しいかはわからないが、4年間文系大学生をやってきてつくづく思うのは、そもそも楽をして過ごそうと思えば徹底的に楽な道を選べるということだ。楽に単位が取れる授業、略して楽単を調べ、人脈をフル活用して課題を乗り切り、AIに助けてもらったレポートを出せば、下手をしたら授業には限りなく出席せずとも卒業できてしまう。

もちろん、筆者はそれではいけないと信じて、卒論は卒業に必要な要件でないのに書くことを決めたし、2年生からゼミも2つ掛け持ちしたし、124単位で良いはずが卒業要件を気にせず取りたい講義だけを取っていたら140単位程度で卒業を迎えることになった。

卒業が決まって毎日好きなことをしている友人たちが羨ましくないと言ったら嘘になる。大学生活は人生最後の夏休みと言われるほど、もう今後こんな自由な時間を過ごすことはできないこともわかっている。それでも、最後まで大学生の本分を全うすると決めたのも自分だし、大人になっても自由な過ごし方や全力で遊ぶのを誰にも文句は言わせない。

 

卒論が終わらないというこの時期の大学生あるあるを書くはずが、書いているうちに入学時に決めた自分のオリジンを思いだした気がする。読者の皆さんは、どうか筆者が無事に卒論を書き上げ卒業できることを祈っていただきたい。

 

参考記事:

28日付 朝日新聞朝刊 15面(オピニオン) 「「アナログ」はどこへ」