先日、『西洋美術の歴史』という本を読みました。美術史の権威ジャンソン父子の世界的ベストセラー History of Art for Young People を訳したもので、西洋美術史を概観するのに適しています。ここでどうにも腑に落ちなかったのは、Art と題されているにも関わらず、西洋美術についてだけ書かれていたことです。Western という形容詞がなくとも、Art という単語一つで西洋美術と言い表せてしまうのです。
これと対照的なのが、プリミティブ・アートという総称です。原始美術と訳されますが、これには先史時代の美術のほかに、ブラック・アフリカやオセアニアの原始民族の「未開美術」も含まれます。印象派以降のフォービスム、キュビスム、表現主義などの20世紀の芸術運動に大きな影響を与えたことで、注目されるようになったのです。しかし、プリミティブという形容詞をもってして、アートとは境界を引かれてしまうのです。権力を有する側に規定されており、ここに西洋中心主義が見え隠れしています。現代のブラック・アートやフェミニズム・アートは、「形容」することばを逆手に取り、自らを再規定するためのツールとしているのです。
私たちの身近なところに落とし込んでみましょう。「医者」と「女医」という言葉を比較してみると、その非対称性が浮き出てきます。「女医」という言葉に対応するのは、性を形容した「男医」であるはずです。しかし、実際には、男性であるべき「医者」におけるイレギュラーな存在として、「女医」は位置付けられているのです。「女子大学」があって、「男子大学」がないことにも類似してるでしょう。かつて女性は大学で学ぶことを許されていなかったのです。そのため、「大学」に通うことのできない女性のための「女子大学」がつくられました。
ことばは、変化しながらも連綿と受け継がれていくものです。だからこそ、私たちが今使っていることばが、かつてあった構造的差別をはらんでいることがあります。さらに、いまだにその構造が残っていることもあります。医学部入試の女性差別は、ぴったりの例でしょう。ジェンダーや人種などによる差別は、決して許されてはなりません。アンテナを広く張って、身近にある差別に気付くことから始めていきたいと思います。
参考記事:
6月18日付 朝日新聞 Globe
小森真樹「欧米での展覧会」,『美術手帖 2023年4月号「ブラック・アート」』