オミクロン株対応の新しいワクチン。今日から接種が始まりました。対象は医療従事者や高齢者など。コロナ第7波はほぼ収束した模様ですが、次の流行期における致死率や重症率の抑制が期待されます。20代の筆者も早く接種したいものです。
ところで、今回の新ワクチンはモデルナ製とファイザー製です。コロナ禍から2年半経った現在でも、国産ワクチンは未だ実用化されず。当初、脚光を浴びたアンジェスは開発中止を今月発表。塩野義製薬も経口治療薬こそ承認審議の最中ながら、ワクチンは申請に至っていません。研究者の皆さんが全力を賭して開発に取り組んで下さっているにも関わらず、成果が出ないのはもどかしい思いです。
なぜ日本企業は欧米に遅れを取っているのか。その要因を探るべく、薬事行政の歴史を調べてみました。
①1990年頃まで:規制一辺倒で産業育成の視点なし
②90〜00年代:国内外の製薬業界の要望に応じて、審査制度の改正進む
③2010年代:AMEDの創設など、研究開発への公的支援も進む
製薬業界は、経産省が管轄する一般産業と異なり、厚労省が管轄しています。政府による介入は市場原理を損なうという認識から、昭和時代の厚生省は産業を育成することなく規制のみ行ってきました。特に、1950〜60年代のサリドマイド事件、70年代の薬害スモン事件、80年代の日本ケミファのデータ捏造事件などを受けて、規制は一貫して強化されてきました。
流れが変わったのは90年頃です。当時、日本の工業が世界一になっても、製薬は欧米と比べて技術も売上も圧倒的に劣っていました。危機感が醸成され、政策見直しの機運も高まりました。まず、厚生官僚の岡光序治氏が、前例踏襲的かつ遅鈍な審査方法を改めようとします。氏は96年に事務次官を辞任したものの、「ピカ新」と呼ばれる画期的な医薬品を優先審査する仕組みが設立されました。医薬部外品の範囲拡張(95年)、承認・許可制度の改正(02年)、医薬品販売の規制緩和(06年)など、薬事法の改正も進みます。
2004年には医薬品医療機器総合機構(PMDA)が設立されました。前身は79年に設立された医薬品副作用被害救済基金。基金の目的は、薬の副作用の被害を受けた場合、裁判しなくても補償を補償することです。製薬会社は売上の一定割合を供出する義務を負います。有害な薬を販売した製薬会社が倒産したり、薬と副作用の関係が完全に解明されなかったりしても、患者を救済することができます。PMDAに改組されてからは、厚労省の審査課に代わって、薬の有効性や安全性の審査を担うようになり、手続きが一層迅速化されました。
1990年頃から、医薬品の認可申請書類を国際基準に合わせる動きも進みました。原因は、日米欧3極通商会議で米国から圧力をかけられたことです。英語ではなく日本語で申請する規則は残ってしまったものの、審査項目などの内容面はCTDという国際基準を導入しています。
2010年代、安倍政権は経済成長戦略の一環として製薬産業を戦略的に強化しました。政府と産業界の間で官民対話を実現。日本医療研究開発機構(AMED)の創設や前述のPMDAの改革を通じて、革新的な医薬品を生み出すための施策を拡充。内閣府の中に、健康・医療戦略推進本部も設置。医療用ソフトウェア再生医療等製品を規制すべく、薬事法は薬機法へと改正しました。
今般のコロナ禍では、アストラゼネカ製ワクチンの生産を請け負ったJCRファーマに対して政府は大量の融資を行い、専用工場の新設に貢献。結果的にアストラゼネカ製は国内で使われず、ほとんど廃棄されましたが。塩野義製薬が開発した飲み薬については、今年7月の審議会で緊急承認を見送り、日本感染症学会と日本化学療法学会から承認すべきだったと提言を受けています。
業界に対する規制と育成の両方が求められる薬事行政。その舵取りは相当難しいものと推察されます。しかし、欧米にこれ以上の遅れを取らぬよう、制度を漸次改善していって欲しいものです。
参考資料:
20日付 日経新聞朝刊(京都15版)2面「社説:新ワクチンの接種意義を語れ」