「高校時代の国語を象徴するものは?」そう聞かれたら、きっと中島敦の『山月記』と答えます。
大学生になってから、読書をする機会が減ったなぁとつくづく思います。授業のために購入した小難しい専門書が本棚には並び、いつしか本は気合を入れて読むものになってしまいました。あれよあれよという間に3年生になり、就活に追われる今、若かった高校時代を思い出したく、現代文の教科書を手に取りました。
高校における学習指導要領では、「書くこと」、「話すこと・聞くこと」、「読むこと」の3つの分野で技能の獲得が目指されています。センター試験世代の筆者からすると、話す・聞くの能力を伸ばす方法として、スピーチ、議論、批評などが示されているのは意外でした。筆者の高校では、読み書きに徹した授業が行われていたからかもしれません。ですが老舗である三省堂や筑摩書房などの、現在の教科書の内容を見てみても、あまり昔と変わらないという印象を受けました。やはり、そこからどのように授業を展開していくかは教師の腕の見せどころなのでしょう。実際に、大学に入り、高校時代の思い出を話していると、「国語」と一口に言っても、多種多様なアプローチで授業がされていることを知りました。
学部、学科に関わらず、大学での学問に正解などないのだと、大学生になってみて実感します。「ルールなんだから、正解がある」と思っていた法律でさえも、時代の変遷とともに移り変わっていき、ただ「今の当たり前」に合わせた適用がなされているのだと気づきました。高校では教科書はその内容をインプットするためのものでしたが、大学ではそこから何を考えたのか、それが「学問成就」になるのでしょう。
当時は「一体なんの役に立つんだ」と感じていた現代文の精読も、ロジカルな考え方を身に付けていく点では必要不可欠で、より深い専門的な学習のための「道具」になっているのではないでしょうか。
久々に教科書を広げ、『山月記』を読んでみると、間に問いが埋め込まれているため、つい答えを探したくなってしまい、なかなか前に進みません。何に対しても「なんで?」で返してくる3歳児と一緒に読んでいるような気さえします。こういったことが思考のトレーニングになっているのだと分かってはいますが、この夏は自由な思考回路で様々なものに触れていきたいです。
参考資料:
文部科学省、「高等学校 学習指導要領(平成30年告示)」
参考記事:
2日付読売新聞オンライン「【特集】『書く・読む』力磨いて他者への想像力を育む…白百合学園」