卒業論文は何のために書くのだろう。卒業を来春に控えた筆者が「卒業研究」に取り組む中で感じたことです。筆者が所属する学部では、提出物を論文には限っていませんが、多くの学生は論文を書いています。卒業の要件の一つであり、3年生の4月ごろから取り組みはじめ、4年生の1月までの約2年間、自分で決めたテーマに挑みます。
論文の中では研究の意義やその成果、寄与、今後の展望を記載しますが、果たして論文は誰にとって意味のあるものとなるのでしょうか。卒業を予定する学部4年生を大きく二つに分けるならば「進学する学生」と「就職する学生」になるでしょう。大学院への進学を志す学生には研究者への道を考える人もおり、彼らにとって学部研究は研究の足掛かりとなる重要なものです。学術研究のお作法や分野の理解、進め方を学ぶ環境として生かすことができるでしょう。さらに学部で執筆した論文が院の入試を左右することもあり、研究者にならなくとも院に進む予定の学生にとってはかなり力を入れて書かなければなりません。筆者がゼミに所属した際、教授より「院に行くか、就職するかどっちだ」と最初に聞かれました。「それによって選ぶテーマが変わるから」というのです。
就職する学生にとって、「卒業研究は卒業単位の一つ」と認識されていることはよくあることです。友人に話を聞くと「とりあえず卒業できればいい」「就職に有利になるから大学に入ったんだよ」と返ってくることは珍しくありません。もちろん、この研究をしたいからこの大学に入った、と入学時から強い思いを保っている学生もおり、すべてがそうだとは言えません。しかし、特にしたいこともなく大学にとりあえず入った、研究が目的ではないといった学生にとって、卒業研究は先述した位置づけになってしまうのです。
さらに、研究成果を収載するジャーナルや雑誌に投稿しなかった論文は社会で日の目を見ることはなく、論文内で自ら設定した意義や成果は何の役にも立たないということもありうるでしょう。そうなればなおさらモチベーションが下がってしまうのは容易に想像できます。すでに卒論を検索できる大学があり、「卒論OPEN AWARD」という社会に向けて発表する場を設ける取り組みも始まっていますが、あまり知られていないでしょう。
ここで筆者なりに今の学部での研究の課題をまとめてみます。
一つ目は自分がした卒業研究がどう生かされるのか明確でない。つまり、狭いコミュニティの間で完結してしまうということ。二つ目は大学そのものの意義が変化していることです。
大学とは何か、広辞苑では「学術の研究および教育の最高機関」と定義されています。学生にとっての先生一人ひとりは研究者でもあります。だからといって専攻分野の研究に注力ばかりしていると教育面がなおざりになり、学部学生の育成が十分なものにならないでしょう。一方で、大学に所属する研究者は自ら研究論文を出してこそという側面もあります。進学する学生はまだしも、研究者にならない学生の教育に力を注ぐ意義が分からなくなってきているのかもしれません。先生、学部学生の双方にとって「大学は何をするところなのか」定義しなおす時期がきているように思えます。
現在日本では研究力の低下が課題に挙げられ、世界トップレベルの研究力を目指す大学に対する10兆円規模の大学ファンドが話題になっています。財政・制度の両側面から世界トップ研究大学の実現に向けた強化、研究基盤への長期・安定的投資の充実、制度改革の実施が狙いとされています。28日の日本経済新聞と29日の朝日新聞では、大学ファンドからの支援の必要性を強調する早稲田大学の田中愛治総長へのインタビューを掲載しました。
この取り組みは残念ながら学部生に直接的に影響があるとは言えません。確かに研究にかけることのできる資金が増えれば設備を整備したり、調査をより深めたりできるかもしれません。しかし、学部生、特に進学をしない学生にとっては、研究力の向上で質の高い教育を必ずしも受けられるとは思えません。
院生や研究者だけでなく、学部生も含めて「大学」です。大学の再定義とそれに付随する研究者の課題や、今まであまり取り上げられてこなかった学部生の研究にも焦点をあてた議論がされることを願います。
参考記事:
28日付 日本経済新聞朝刊(福岡13版)37面教育「10兆円ファンド対象に名乗り」
29日付 朝日新聞朝刊(福岡13版)19面教育「教育・研究力 アジアで一番価値ある大学に」
参考資料:
令和3年3月 文部科学省 大学ファンドの創設について(資料3)