八女の雛人形に隠された工夫 長く楽しむ雛祭り

雛人形と聞くと、どのようなものを思い浮かべますか。

3段、5段、7段や、親王飾りという男雛と女雛のみのものなどがありますが、筆者にとっては実家で飾っていた5段の雛人形でした。

横町町家交流館に展示されている7段の雛飾り。(2月27日筆者撮影)

3月3日は桃の節句。雛祭りは平安時代、宮中で行われていた無病息災のお祓いが、子どもの人形遊びと結びついたのが始まりと言われています。江戸時代になると、女の子の健やかな成長を祝う行事として広がり、現代まで続いています。

黄櫨染御袍 (こうろぜんのごほう)と十二単を身にまとった雛人形。雛人形の由来が天皇陛下と皇后陛下であることがわかる。(2月27日筆者撮影)

「雛の里・八女ぼんぼり祭り」の開催中に福岡県の八女福島を訪れ、初めて「箱雛」に出会った筆者は、横町町家交流館で話を聞きました。

江戸時代に雛祭りの風習が急速に全国に広まり、人形は高値で取引されました。購入できるのは大名や裕福な商人の家族ばかりで、貧しい人たちは手にすることができなかったと言います。できるだけ無駄をしないよう心掛けてきた八女の人々によって「箱雛」は生まれました。商人たちがあつまる城下町であり、「仏具」で有名だった八女では、女雛の冠やその他の飾りを仏具や堤灯を利用して作成。さらには仏壇から着想し、箱に入れた雛人形ができあがったのです。

男雛と女雛がそれぞれ箱のなかに鎮座しており、画像のような溝が箱に彫られてあります。当時は倹約令があり、豪華な人形を作ることが認められていません。役人が家に来た際には、蓋をして隠していたようです。そこまでしてもやはり雛人形を飾って、子どもの成長を祝いたい。そんな親心が人形の細部への工夫からも伝わってきました。

横町町家交流館で展示されていた箱雛。箱の上部の溝に、蓋をはめて片づける。 (2月27日筆者撮影)

筆者の実家では、母が子どもの時から、5段飾りで雛祭りを迎えています。幼少期は変わらない表情に人間味を感じられず怖かったのですが、母から「夜は動いてお祭りをしているよ」と言われたのを機に、毎朝「昨日よりちょっと右に向いている!」「笛が落ちているから、朝あわてて、元の格好に戻ったのかな」などと違いを探すのが楽しみになりました。左大臣に「きよまろ」と名付け、毎晩手紙を書いていました。筆で書かれた手紙が返ってきたときは本当に嬉しく、長年交換し合いました。当時は本当にきよまろさんからのお返事だと信じていましたが、大きくなった今、家族の優しさを感じます。

当時筆者が書いていた「きよまろさん」への手紙。年末の片付けの際に見つかった。振り返ると少し恥ずかしい。(2021年12月26日筆者撮影)

しかし、中学生ごろからは飾らなくなりました。5段もあると出すのも片づけるのも時間がかかるため、面倒くさくなったのです。「2月末から3月中旬までしか出さないのに」という思いもありました。

筆者の周辺では、「娘がお嫁に行ってからは、出すのも大変で、ほとんど出さないの。今年はちょっとだけ。」と立ち雛を玄関に飾っている70代の女性や、「もう体力がないから、小さい置物で」と雛人形の代わりとなるものを飾る家庭も増えてきました。実家も最近は出し入れも手入れも楽な置物で代用しています。とはいえ、「やっぱり季節を感じられるし、かわいらしいでしょ」と、いくつになっても雛祭りを楽しみたいという思いはあるようです。

家族の形、暮らし方、家の様式の変化と共に、雛人形も変わっていくのでしょうか。八女福島では大正時代の雛人形も町中に飾られており、当時の工夫や深い歴史を感じました。面倒だからと全く関心を示さないのではなく、少しでも伝統に触れ、年齢や自分の性格に合った雛祭りや雛人形の形を見つけることが、長く楽しむ秘訣なのかもしれません。

八女福島の酒屋さんでは、雛人形と一緒にお酒も。(2月27日筆者撮影)

 

参考記事:

3月4日付 読売新聞オンライン「健康と幸せ願って 淡嶋神社雛流し」

3月4日付 朝日新聞オンライン「守ってくれてありがとう ひな祭りの日に人形供養 高知・一條神社」