9月23日に全国公開された映画「MINAMATA」。主演のジョニー・デップが、1970年代の水俣を撮り続けた写真家ユージン・スミスを演じています。今の大学生にとって、水俣病は生まれる前の出来事です。当時、熊本県水俣市で何が起きていたのか、映画をきっかけに公害について調べてみました。
1908年、チッソの前身である日本窒素肥料水俣工場の操業が始まりました。工場では、肥料などの原料になる様々な化学薬品を製造していました。65年に社名をチッソに改称。水俣市立水俣資料館にある資料によると、全盛期は市民の半分ほどがチッソに関連する仕事に従事していたそうです。
水俣病の原因となったのは、アセトアルデヒドを製造する際に触媒としていた水銀です。56年、熊本県にある水俣湾近くに住む5歳と2歳の姉妹が原因不明の病気にかかり、水俣保健所に届けられたのが最初の公式確認と言われています。原因は海洋に放出されたメチル水銀。汚染された魚介類を食べることで体内に蓄積し、発病しました。国が「公害病」と認定をしたのは68年のことです。
翌69年に水俣病患者らが、チッソを相手取り6億4,000万円余の慰謝料を求め、熊本地裁に初めての裁判を起こしました。今年4月29日の朝日新聞の社説によると、これまでに2283人が患者認定を受け、約7万人が被害を認められたとのこと。今もなお、約1400人が熊本、鹿児島両県に患者認定を求めており、約1700人が国を相手に裁判を続けているそうです。
2011年に「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」に基づいて、チッソは全ての事業を親会社のJNC株式会社に譲渡。JNCの広報担当者によると、現在の水俣工場ではアセトアルデヒドの製造はしておらず、液晶の製造に使用される化学製品を製造しているとのことです。
水俣病は、小学生の頃に4大公害病の一つとして勉強しました。17年告示の小学校学習指導要領、第3章の第3節「第5学年の目標及び内容」には
公害の発生時期や経過、人々の協力や努力などに着目して、公害防止の取組を捉え、その働きを考え、表現すること。
と、明確に書かれています。
興味深いことに、教科書によってどの公害を取り上げるかは異なっていました。20年度版の教科書においては、東京書籍が「水俣病」、教育出版が「北九州市の大気汚染」、日本文教出版が「四日市ぜんそく」を例に挙げていました。また、4大公害病は、いずれの教科書も表にして紹介していました。水俣病の説明文を抜粋して紹介します。
水俣病を取り上げた東京書籍の教科書には、工場からの排水の写真や、水俣病裁判の集会に参加する人の写真など、当時の様子が生々しく紹介されていました。しかし、教科書に載っていない水俣の様子を知りたくて、報道写真家の桑原史成さんの写真展に行ってきました。
映画「MINAMATA」に合わせて開催された、桑原さんの写真展は10月16日まで東京都港区の「ギャラリー・エム西麻布」で開かれています。「映画のモデルになった写真家ユージン・スミスは1970年代の水俣を撮影したので、1960年代の写真を中心に展示することにした」とのことです。水俣病の患者やその家族の生活が映し出されていました。「写真の大きな可能性は、記録だと思う。60年前の写真でも風化しない」と桑原さん。また、生前のユージンを知る桑原さんは「いい映画だったけど、少し事実と違うところがあるんだよ」と話してくれました。
公害は水俣を含む4大公害だけではありません。公害運動の原点とも言われるのは、国内一の産出量を誇った足尾銅山の鉱毒事件。明治天皇に直訴した田中正造が知られています。銅山付近の栃木県松木村は、精錬で発生する煙害の被害で廃村に。また、水源地帯の森林を銅山用に乱伐したことで、渡良瀬川では洪水被害が多発しました。渡良瀬川下流にある栃木県谷中村も、国による公害対策として貯水池化が決まり廃村になりました。谷中村の跡地が栃木、群馬、埼玉にまたがる現在の渡良瀬遊水地です。今もなお、地域社会に深い傷跡を残しています。
映画「MINAMATA」をきっかけに、公害問題について考えました。近代化によって引き起こされた公害。便利になった生活の影に何があったのか、これからも向き合っていこうと心に決めました。
参考記事:
4月29日付 朝日新聞デジタル 社説「水俣病65年 いつまで放置するのか」
9月26日付 朝日新聞朝刊(埼玉13版)「悲劇を問う エンタメの力」
参考資料:
チッソ株式会社 会社案内—沿革
読売新聞 水俣病公式確認60年
文部科学省 【社会編】小学校学習指導要領(平成29年告示)解説
水俣市立水俣病資料館 水俣病関係年表
栃木県総合教育センター 明日をつくる子どもたちの環境学習「足尾銅山を知ろう」