6月23日、太平洋戦争末期の沖縄戦における組織的戦闘が終了してから80年を迎えました。最後の激戦が繰り広げられた沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和記念公園では「沖縄県全戦没者追悼式」が営まれ、石破茂首相や衆参両院議長らが参列しました。
イスラエルがガザ地区での武力行使を続け、米国がイランの核施設を攻撃するなど、国際情勢は緊迫の度を増しています。80年前に戦場となった現地で人々は何を求め、何を祈ったのか。来賓あいさつにはヤジも飛びました。本稿では、沖縄戦を振り返りつつ、追悼式当日の様子をお伝えします。
◾︎「鉄の暴風」沖縄戦
沖縄県では太平洋戦争末期、県民を巻き込んだ地上戦が続き、約20万人が死亡しました。一般住民の犠牲者数は約9万4千人に上るとされ、当時の沖縄県民の4人に1人が犠牲になったと言われています。
米軍は1945年3月、沖縄本島の西にある慶良間(けらま)の島々で攻撃を開始し、4月には本島に上陸しました。米軍による激しい空襲や艦砲射撃により無数の砲弾が上空を覆い、その様子は「鉄の暴風」と語り伝えられています。
日本軍は、上陸してきた米軍をできるだけ沖縄に足止めさせ、戦闘を長引かせようとしました。「本土決戦」準備のため、時間稼ぎを目論んだのです。これにより、沖縄は本土を守るための「捨て石」となりました。
しかし、部隊の台湾への移動などにより人員の不足が深刻となります。日本軍は、中学校や師範学校、高等女学校の学生ら約2000人を戦場へ駆り立てました。彼らは、「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」などとして、日本軍の陣地づくりや負傷兵の看護などをさせられました。戦争に駆り出されたのは沖縄住民も同様です。
上陸した米軍は、数日のうちに沖縄本島を南北に分断し、南に下っていきました。住民の多くが避難していた南部では、戦争地域と避難地域の区別がなくなります。日本兵は戦争を続けるため、洞穴に隠れた住民を追い出したり食糧を奪ったりしました。6月23日に日本軍の組織的な戦闘が終わってからも各地で小規模な反撃が見られ、犠牲者は増加していきます。
沖縄で使われた弾薬の総量はおよそ20万トンとされ、この5%にあたる約1万トンが不発弾として残ったと推定されます。現在も約1850トンの不発弾が地中に眠り、処理が続いています。沖縄戦の禍根は現在に至るまで、人々を苦しめているのです。
◾︎玉城デニー知事による「平和宣言」
式典には、石破首相や衆参両院議長、国連軍縮部門トップの中満泉事務次長のほか、遺族ら約4000人が参列しました。
玉城デニー沖縄県知事は「平和宣言」で、しまくとぅば(古くから沖縄で話されている言葉)と英語を織り交ぜながら、「沖縄戦の教訓を伝え続けていくことは、今を生きる私たちの使命」とし、「戦後90年、100年を見据えた長期的な視点に立ち、世界の恒久平和に向け沖縄が果たすべき役割を掲げ、発信する」と訴えました。集中する米軍基地の負担や、相次ぐ米軍人による暴力行為を正面から見据えたことばです。
◾︎小学生が語る過去
地元の小学生・城間一歩輝さんの朗読「おばあちゃんの歌」は、沖縄戦で深い傷を負った祖母が歌う民謡がきっかけで生まれました。
当時5歳だった祖母は、米軍が投げ込んだ手榴弾で弟を失い、自身も左太ももに重傷を負いました。生き残った自分を責め、残った傷を周囲に明かすことができず苦しんだと言います。城間さんは、生き抜いた祖母に「生きていてくれてありがとう」と伝えました。それに対し祖母は、城間さんの頬を触りながら「生き延びたから命が繋がったんだね」と返します。最後に「おばあちゃんが繋いでくれた命を大切にして一生懸命に生きていく」と語りかけます。
何十年経っても消えない祖母の体と心の傷を念頭に、惨禍を2度と起こさないよう戦争の話を伝え続けていくという決意が感じられました。
◾︎石破首相あいさつとヤジ
式典では、石破首相による来賓あいさつもありました。小泉内閣で防衛庁長官として国民保護法制に携わった経験をもとに、沖縄で起きた理不尽な出来事を振り返り、戦争の愚かさについて述べました。米軍基地の負担軽減に向けた決意を示したものの、辺野古への基地移設については触れません。直前に発生した米軍によるイランの核施設への攻撃についても、言及することはありませんでした。波風を立てないことを優先し、いつもと同じことを言っているだけという印象を受けました。
そんな中、石破首相の発言を遮るようにヤジが飛びます。現地男性が「沖縄を戦場にするな」「ウチナーンチュ、声を上げろ」などと叫んでいたのです。退場させられる男性に向けて参加者からは拍手が送られました。自衛隊の「南西シフト」が進み、米軍基地のみならず自衛隊関連施設の設置も進む沖縄では、不満が募っています。
◾︎継承していく
リゾート地として人気の沖縄では80年前、住民を巻き込んだ戦争が発生しました。ポツダム宣言の受諾により戦争が集結しても、米国の統治下であり続けます。72年に施政権が日本国へ返還されてからも、抑圧される構造は変わりません。国土全体に占める面積では0.6%しかない沖縄県内に、在日米軍専用施設の約70%が集中しているのです。基地負担削減のために普天間基地を移設する計画が進んでいますが、その移動先も県内です。米軍人による性暴力や殺人、交通事故など、犯罪行為も後を断ちません。戦争の反省を沖縄県だけに、いつまでも背負わせてはよいはずがありません。
国家が危機に直面したとき、抑圧されるのはいつも弱い立場の人々、中央から離れた人々です。現在も続く理不尽を正しつつ、当時の究極的な人権侵害の場面を記録・継承していく必要があります。言葉にすることは簡単ですが、非常に難しい課題です。同じことを繰り返さないために継承する術を探っていかなければなりません。
参考記事:
・6月24日付 朝日新聞 朝刊1面 「歴史を胸に 祈る」
・6月24日付 朝日新聞 朝刊2面 「沖縄戦の実相 遠のく政治」
・6月24日付 朝日新聞 朝刊24面 「つないでくれた命 大切に」
・6月24日付 朝日新聞 朝刊25面 「平和の祈り 今こそ」
・6月24日付 日経新聞 朝刊39面 「失われた命、悲劇語り継ぐ」
・6月24日付 読売新聞 朝刊1面 「沖縄戦80年 教訓次代に」
・6月24日付 読売新聞 朝刊4面 「ひめゆり訪問 共感示す」
・6月23日付 朝日新聞 朝刊22面 「鉄の暴風 つなぐ実相」
・6月23日付 日経新聞 朝刊35面 「不発弾1850トン、沖縄に今も」
・6月23日付 読売新聞 朝刊23面 「沖縄 不戦誓う炎」
・沖縄タイムスプラス「戦後80年慰霊の日 ドキュメント沖縄6.23」
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1608433
・琉球新報「沖縄戦って、どんな戦争だったの?」
https://corp.ryukyushimpo.jp/okinawasen/sensou01
参考資料:
・内閣府「沖縄戦の概用」
https://www8.cao.go.jp/okinawa/okinawasen/gaiyou/gaiyou.html
・うるま市「うちなーぐちって何?
https://www.city.uruma.lg.jp/miryoku/p000005.html
・防衛省・自衛隊「沖縄の基地負担軽減について」
https://www.mod.go.jp/j/approach/zaibeigun/saco/
(すべて最終閲覧7月1日)