近年、人工知能(AI)の技術が飛躍的に発展しており、私たちの暮らしを根本から変えつつあります。こうした状況の下で、アメリカではAIに関する政策をめぐり、開発を加速させるべきだと主張する「加速派」と、人類への影響を考慮して規制や制御が必要だとする「安全派」が対立しています。加速派は技術を他国に先んじて開発することが経済的・軍事的に重要だと訴えるのに対し、安全派はその暴走が人類の未来に深刻なリスクをもたらすと警鐘を鳴らしています。
ここで私は、「我々は技術の進化とどのように向き合うべきなのか」という疑問を抱きました。本稿では、これまで人間と技術がどのような関係を築いてきたのか、また技術の発展が止まらない現代社会の中で、人間が果たす役割はどのようなものかを考えてみたいと思います。
私たちの社会は常に技術とともに発展してきました。石器や火の利用が人々の生活を大きく向上させ、文字の発明が知識の蓄積を可能にし、印刷技術が思想の広がりを加速させました。産業革命以降は蒸気機関や電気、鉄道といった技術が人々の生活や働き方を根本から変えてきました。このように技術は人類が利用するだけではなく、私たちの思考や価値観を根底から作り変える力を持つ存在です。
そのような歴史を踏まえれば、AIの登場もまた、単なる便利なツールというだけではなく、人間の在り方そのものに影響を与える重大な転換点であると考えられます。AIはすでに自動車の自動運転や文章・画像生成、語学学習のサポートなど、多くの場面で活用されています。こうした技術がもたらす効率性や利便性は確かに魅力的です。しかし同時に、AIの進化によって突きつけられる問いがあります。それは、「人間にしかできないこととは何か」ということです。
AIは大量のデータをもとに合理的な選択をしたうえで整った言葉を並べることができます。しかし、それは意味を理解しているからではありません。一方、私たち人間はどうでしょうか。経験を通じて意味を見出し、苦しみを経て他者に共感し、言葉にできない感情を芸術で表現します。
たとえば、愛する人と別れたときに抱く喪失感や、道端に咲いた花を見て覚える小さな幸福感。こうした情動や意味は、どんなに精巧なAIにも再現できないでしょう。むしろそうした「意味のある経験」を通してこそ、私たちは人間らしさを実感するのではないでしょうか。
だからこそ、AIにできることはAIに任せ、人間は「人間にしかできないこと」に力を注ぐべきだと考えます。効率性や合理性を追い求めるだけでなく、意味を問い、共感し、疑問を持ち、語り合う——そうした営みこそが、人間の価値を守り、高める鍵となるはずです。技術が進化する今だからこそ、私たちは自らの輪郭、あるいは実像をあらためて見つめ直す必要があります。
技術は人間を置き去りにする敵ではなく、人間の在り方を映し出す鏡でもあります。そこに映る像をどう見つめ向き合うかは、私たち自身に委ねられています。技術に飲み込まれるのか、それとも技術とともに人間性を深めていくのか。私は、AIが進歩して人間を超える存在になったとき、人間の価値や存在意義が薄れてしまうことに不安を感じています。AIと人間が持続的に共存するには、AIを際限なく進化させるのではなく、人間がその進化をコントロールすることが必要だと私は考えます。
参考記事:
12日付 読売新聞朝刊(東京12版)6面(解説)「米のAI開発『加速派』優勢 『安全派』と思想対立 反規制 トランプ政権に影響力」
参考資料:
経済産業省 北海道経済産業局「道具の発明・発見の歴史」(最終閲覧:2025年4月13日) https://www.hkd.meti.go.jp/hokig/student/j01/index.html