【第2回】歩いてしろう、丸亀・松山城の城違い

松山城は何を見せようとしているのか

同じ四国の城でありながら、丸亀城と松山城はどこが違うのか。前回は、四国最小の丸亀城を歩いた。小さな天守と急な坂、そして石垣の迫力に、小さいからこその工夫を見た。今回は、翌9月11日に訪れた、四国最大の松山城を歩く。

松山城は、標高約132メートルの勝山の山頂に本丸を置く平山城で、丸亀城と同じ現存12天守に含まれ、天守を含む21棟が重要文化財に指定されている。城山公園全体は国の史跡でもある。規模はこれほど違うのに、どちらも江戸時代の天守を今に伝える。両者の差は何から生まれたのか。

今回は、前回と同じ観点から、松山城の道のりと石垣、天守を見ていく。最初に目にしたのは、霧の中に浮かぶ、石垣と櫓の連なる重厚な姿だった。

松山城(2026年9月11日筆者撮影)(以下筆者撮影)

 

どう登らせる城か

松山城には、現在4本の登城道がある。松山城の公式サイトによれば、最も一般的なのはロープウェイやリフトを使うルートだ。一方、江戸時代の正規ルートは二之丸から続く黒門口登城道だったという。

筆者が選んだのは、そのどちらでもない古町口登城道である。公式サイトの年表によれば、この道は本丸が公園として公開された翌年の1911年(明治44年)に、県庁裏登城道とともに開通した。乾門を通って天守へ向かう石段が多いルートで、実際に徒歩で40分かかった。丸亀城では大手門から歩いて15分ほどだったため、行程は3倍近くになった。

最初に待っていたのは、うっそうとした木立の中の石段だった。とても急で、攻め入る立場を想像すれば、あまりに過酷な道である。さすが城の裏口の役割を果たしていると感じた。中腹で石段が途切れると、木の根がむき出しの悪路に変わり、ここで息が上がった。中腹から終盤にかけては舗装がなく、朝方まで降っていた雨で地面もぬかるんでいる。足を取られながらの登りになった。

入口から20分ほど歩くと、木々の間に石垣と乾櫓が現れた。この日は曇りで、うっすらと霧がかかっていたため、見えたのは石垣と乾櫓のぼやけた姿だけだった。しかし、木々の間からのぞくわずかな陰影は、かえって幻想的だった。

丸亀城で通った大手門が城の正面だったのに対し、今回の古町口から入る乾門は、本壇の西に位置する裏門にあたる。

 

石垣をどう見るか

古町口を登る筆者の目を引いたのは、木々の間から現れた石垣の存在感だった。特に印象に残っているのが、登城道に沿って続く石垣で、見上げるほどの迫力があった。搦手(城の裏側)の最初の要所である乾一ノ門跡を抜け、乾門東続櫓の石垣に沿って進むと、乾門に着く。

古町口登城道から登り、乾門が見えた様子

ここで一つ気づいたことがある。それは、石の形が不揃いで、どこか自然な印象を受けたということだ。ただし、場内の解説によれば、松山城の石垣はほとんどが打込接(石をある程度加工して積む方法)だという。

丸亀城の三の丸北側の石垣は、第1回で書いたとおり20メートル以上ある。見比べると、丸亀城のほうが高く見えた。松山城の本丸石垣は、場内の解説によれば最も高い南端で17メートルとされ、数字の上では大きくは違わないのだが。ただ、松山城の石垣は、山全体を抱え込むように幾重にも連なっているという。

さらに目を引いたのが、「登り石垣」だ。場内の解説によれば、山頂の本丸と麓の二之丸をつなぐ石垣が2本一対で築かれ、南側は総延長230メートルと国内最大の規模だという。現存12天守の城では、松山城と彦根城にしか存在が確認されていない。下山で使った県庁裏登城道では、この登り石垣を間近に見ることができた。斜面を登っていく長さに驚いた。

登り石垣

山全体を抱え込むこの石垣の先に、どのような守りが待っているのか。次は、本丸と天守を確かめたくなった。

 

天守から何が見えたか

筆者が歩いたのは、古町口登城道から乾門、紫竹門を経て本丸広場に入り、本壇の一ノ門をくぐって天守へ至る順路だ。下山には県庁裏登城道を使った。

松山城 登城記念符(御城印)

①裏口から本丸へ

乾門から本丸に入るまで、門、続塀、石垣が続き、裏口でありながら守りは厳重だった。

続塀に沿って進むと、紫竹門をくぐって本丸広場に出る。紫竹門は、公式サイトによれば大手と搦手を仕切る要の門だ。そこから西に延びる続塀では、狭間の向きが途中から逆転していた。大手側と搦手側の両方から攻撃できる仕掛けで、その向きの変化に気づいたとき、守りの工夫に感心した。

本丸広場から見た松山城天守

搦手の本丸北西には、築城当初の二重の隅櫓である乾櫓と、日本で唯一現存する望楼型二重櫓(建物の上に物見を載せた形式の二重の櫓)の野原櫓がある。松山市の公式サイトによれば、乾櫓は壁の中に小石や瓦を詰めて厚くした太鼓壁構造で、乾門・乾門東続櫓とともに搦手を防衛する。野原櫓は天守の原型といわれる古い形式で、現存12天守の犬山城と同じ初期の望楼型の建築手法だという。

 

②本壇と天守の構造

本壇は、本丸よりさらに約8メートル高く、出入口は一ノ門の1か所しかない。そこから天守まで、石垣や櫓に囲まれた通路を、いくつもの門をくぐって進む。門を出てから、次の門に入るために体の向きを180度反転する位置に門があり、その感覚が新鮮だった。一ノ門と二ノ門の間は「枡形」と呼ばれる方形の空間で、四方から攻撃できる造りになっている。

そして、松山城の象徴である天守へと向き合う。その構造は三重三階地下一階の層塔型(各階を規則的に小さくしながら積み上げる形式)で、 天守・小天守・櫓を渡櫓でつなぐ連立式である。1854年(安政元年)に落成し、公式サイトは「江戸時代最後の完全な城郭建築」と紹介している。ただし、天守に連なる建物は1968年(昭和43年)に復興されたものだという。見る方向によって意匠が異なる、複雑で厳重な構成だとも説明されている。建物で仕切られた中庭を歩くと、天守に至る道が建物に囲まれていることを実感し、守りの固さを感じた。実際に、見る方向で姿が変わる美しさにも目を奪われた。

連立式天守

天守内部から見た連立式天守及び天守広場

 

③内部で体験したこと

さらに内部へと足を踏み入れると、刀や甲冑が展示されていた。天守内の体験コーナーでは、スタッフの方に構え方を教わりながら、狭間のところで火縄銃を構えてみた。狭間には、長方形の矢狭間と、正方形の鉄砲狭間があり、その様子を実際に確認できた。火縄銃は、構えてみると想像より重くて構えにくかった。展示を見るだけでは得られない体験だ。

火縄銃体験

案内板では、本壇の配置図を見て、天守に至る門の数と順番、天守・小天守・櫓の位置関係を確認した。自分が歩いてきた道が、図のどこに当たるのかも確かめられた。また、伊予一国絵図を見ると、伊予は多くの島を持ち、海岸線が非常に複雑な形をしていることが分かる。海から離れるほど山が多く険しくなり、攻めにくい地形であることも見て取れた。

本壇 配置図

伊予一国絵図(寛永期頃)

この天守は、天井板や床の間、敷居まで備えた居住性の高い造りだった。案内板によれば、天守としては珍しい造りだという。その一方で、内部の急な階段は、居住性の高い造りとの落差を感じさせた。

天守内の急な階段

 

④最上階からの眺め

最上階からは、曇り空の下でも松山市街を見渡せた。西側を向くと、遠くに瀬戸内海(伊予灘)が見えた。東側には、愛媛県内で有名な石鎚山が見えるはずだったが、あいにくこの日は雲に隠れていた。松山城内の案内板によれば、天気に恵まれれば、瀬戸内海の対岸にある佐田岬まで見えるという。

一望できる松山市街と瀬戸内海(西側の景色)

 

なぜこの場所に城が築かれたのか(歴史と役割)

石垣や天守に触れ、眼下の景色を眺めるうちに、そもそもなぜこの場所にこれほど大きな城が築かれたのかという疑問が湧いてきた。その背景には、松山城が歩んできた長い歴史と地理的な条件がある。

松山城の歴史は、関ヶ原の戦いの功で20万石の大名となった加藤嘉明が、1602年(慶長7年)に築城を始めたことに始まる。公式サイトによれば、嘉明は居城だった正木城では手狭になったと考え、松山平野の中央に位置する勝山に新たな城を築くことにした。入り組んだ海岸線と険しい山という地形も、この選択の背景を考える手がかりになった。翌年には、地名を勝山から松山に改めている。

しかし、築城は約四半世紀におよび、1627年(寛永4年)、城が未完成のまま嘉明は会津へ転封となる。代わって入封した蒲生忠知が居城を完成させたが、1634年(寛永11年)に急死して蒲生家は断絶した。翌年、徳川家康の甥にあたる松平定行が入封し、以来14代にわたって松山藩を治めた。

天守は、1784年(天明4年)に落雷で焼失した。再建工事が始まったのは1820年(文政3年)で、一度は断念しながら1847年(弘化4年)に再着工し、1854年(安政元年)に落成した。武家諸法度のもとで天守の再建が難しかった時代である。これを成し遂げた松山城は稀有な存在だと、城内の解説には書かれていた。

松山城の歴史に関する場内展示

歴史を紐解くと、この城が果たしてきた役割の多面性が見えてくる。山頂の本丸が守りの中枢としての役割を果たす一方、麓の二之丸と三之丸には、藩主の御殿や政務の施設が置かれ、藩政の舞台として機能していた。松山城は、敵から領地を守るための要害であると同時に、松山藩を治める政治の中心でもあったのだ。

あの急な古町口の石段や、門を幾重にもくぐる本壇、山の斜面を登る登り石垣。それらはすべて、戦国武将が築き始め、太平の世を経て、幕末に天守が再建されるまで、長い時間をかけて守られてきた城の姿だったのだと腑に落ちた。

 

まとめ:丸亀城との比較に向けて

こうして松山城を歩いてみると、門、石垣、櫓を幾重にも重ねた守りの固さが、強く印象に残った。裏口の古町口でさえ急な石段と悪路が続き、本壇では門を出るたびに体の向きを変えて次の門に入る。火縄銃を構える体験では、展示を見るだけでは得られない実感があった。

「四国最大の城」と呼ばれる松山城は、ただ大きいだけではなく、守りの工夫を、訪れた人が自分の体で確かめられる城だった。そして天守の最上階から松山市街を見渡すと、平野の中心から見下ろしていることを実感した。守りを固めるだけでなく人々に威厳を示す立地も、この城の姿の一部なのだと思う。

前日に歩いた「四国最小の城」丸亀城と、「四国最大の城」松山城。大きさも成り立ちも異なる2つの城は、それぞれどのような思想で築かれたのだろうか。次回の第3回では、この2つの城を並べて比べ、その違いが何を意味するのかを考察する。

松山城探索後の道後温泉

 

 

参考記事:

・2025年12月30日付 読売新聞(朝刊)(大阪) 23面 「新年前に 登城道を清掃 松山 新田高の生徒ら=愛媛」

・2025年6月20日付 読売新聞(朝刊)(大阪) 27面 「国文化財 人命リスク 斜面1200か所 災害時損壊 城跡など補強支援へ」

・2025年2月2日付 日経電子版 「城でにぎわい創出 松山はVR合戦、岡山は地図で回遊」

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC177DZ0X10C25A2000000/

 

参考資料

・松山城公式サイト 松山城の紹介

https://www.matsuyamajo.jp/guide/matsuyamacastle.html

・松山城公式サイト 歴史と人物

https://www.matsuyamajo.jp/discover/history.html

・松山城公式サイト 建築と文化財 https://www.matsuyamajo.jp/discover/connection.html

・松山市公式ホームページ 野原櫓と乾櫓 https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/shitestukoen/matsuyamajo/noharayagura.html

(最終閲覧はすべて2026年10月13日)