海の底から、ダイバーたちが遺骨を持ち帰ってきた。砂浜に到着して、遺族のもとへ向かう。待機していたメディアが一斉に集まる。
砂浜にはメディアを規制する線が引かれていた。だが、そんなものは全く意味をなさなかった。遺骨をカメラに収めようと押し寄せるメディアの波に押され、本来最優先されるべき遺族たちさえも、肉親の遺骨を見ることができない。「メディアは下がって!遺族を中に入れて!」と誰かが叫ぶと、なんとか遺族は中に入ることができた。
1942年、山口県宇部市の長生炭鉱で起きた水没事故。犠牲者183名のうち約7割の136名は、朝鮮半島から強制連行や出稼ぎのために来た人々だった。80年以上の時を経て、ようやく遺族のもとへ還ろうとする遺骨を前にしたその光景が、2ヶ月が経過した今も脳裏に焼き付いて離れない。
筆者はこの日、翌7日の追悼集会に向けたボランティアスタッフとして現場にいた。業務の合間、期待に胸を膨らませてダイバーの帰還を待っていたが、そこで目にしたのは遺族を押し退けてシャッターを切るメディアの姿だった。
メディアスクラムを見つめながら、とある記者はこう呟いていた。
「あの中に入っていけるのが、良い記者なんだよなあ」
確かに、情報を伝えることは記者たちの使命だろう。しかし、果たしてそれは遺族を力ずくで押し退けてまで遂行すべきものなのだろうか。
繰り返される「二次被害」
こうした「集団的過熱取材」、いわゆる「メディアスクラム」への反省から、日本新聞協会は2001年に指針を発表している。そこには「いやがる当事者を強引に包囲すべきではない」「通夜や葬儀では遺族の心情を踏みにじらないよう配慮する」と明記されている。また、現場の混乱を防ぐための「代表取材制」という仕組みも存在する。
だが、あの砂浜にいた誰が、この指針を意識していただろうか。
メディアの暴走は、遺骨収集の場だけにとどまらなかった。追悼集会当日には、台湾から加わってくれたダイバーのウェイ・スーさんが亡くなる悲惨な事故が起きた。ウェイ・スーさんの搬送現場に立ち会ったボランティアスタッフによると、立ち入りを拒むスタッフを振り切り、強引にレンズを向ける記者の姿があったという。
以前能登を訪れた際に、地元の方が被災直後を振り返って言っていた言葉が蘇った。
「メディアの奴らは一回来て、欲しい情報だけ取ったら終わりだ。俺の方も、どんな言葉を欲しているのか、分かってしまう。もうメディアの取材には答えたくない」
大震災後の津波により、児童108名のうち74名と教員10名が亡くなった石巻市立大川小学校。その隣にある大川震災伝承館にも、ある遺族のこんな言葉が残されている。
「3月11日は、ここにはきません。本当は手を合わせたいんですけど、報道の方がたくさんいるでしょ。カメラ向けられるのは嫌なのよ。そっとしておいて欲しいわね。私たちにとっては大切な人の命日なんだけれど遠慮しちゃってね」
しかし、問いは自分にも返ってくる。もし私が会社の看板を背負い、デスクから「決定的な絵」を求められていたら。読者の関心という大義名分を盾に、私はシャッターを切らずにいられただろうか。正直に言えば、自信がない。
「良い記者」の定義を問い直す
昨今、メディアへの批判は「オールドメディア」「マスゴミ」といった言葉と共に高まるばかりだ。私が「将来は記者になりたい」と言えば、「なんで?オワコンじゃん」と怪訝な顔をされることも少なくない。
それでも私は、誠実にペンを走らせる記者たちの姿も知っている。彼女ら、彼らの情熱に満ちた目を知っている。誤情報やデマが溢れかえる今、足で稼ぐ情報の価値は高まっていくようにも感じる。だからこそ、記者を志す者の一人として、今の報道姿勢に失望せずにはいられない。いくら伝える情報が尊いものであっても、発信者であるメディアそのものが信頼を失えば、その情報は誰の心にも届かないだろう。
以前出会った記者は「メディアスクラムを無くすのなんて無理だよ」と言っていた。本当にそうだろうか。諦めるしかないのだろうか。ただ言えるのは、あの砂浜で感じた「違和感」を殺してまで撮る写真に、真実を伝える力があるとは思えないことだ。
「あの中に入っていけるのが良い記者だ」という言葉を、私は拒絶したい。他者の痛みに鈍感になることがプロとしての熟達への階段だとしたら、私はいつまでも未熟なままでいたいと思う。
被害者や遺族を二度傷つけないための仕組みを、単なる「紙の上のルール」で終わらせてはならない。今、自らの報道姿勢を根底から見直し、記者教育を徹底することが、メディアに課せられた急務ではないか。
参考資料:
一般社団法人日本新聞協会2001年12月6日 集団的過熱取材に関する日本新聞協会編集委員会の見解
