「対AI 自分を見つめ続けるために」

先日、YouTubeで「Chat Boy」という縦型ドラマを見ていました。物語のカギとなるのは、「AI」。主人公は、AIを仕事での立ち振る舞いや夕食の献立など生活の多くの選択において、意見を聞くというよりは、選択を任せきる形で活用していました。その後、AIが政府による規制対象となったことで、日々のコミュニケーションや暮らしで上手く立ち回れなくなっていきました。

 

縦型ドラマ:スマートフォンの画面サイズに最適化されたドラマ。一般的に、1話あたりは数分から数十分と比較的短い。

 

物語の主人公ような「AI依存」とも言える生活は、AIが日常に浸透してきた今フィクションだからでは済まされなくなってきています。使うことが当たり前となっていくこれからの社会でどのような「対AI」の姿勢をとっていく必要があるのでしょうか。

 

皆さんは、どんな場面においてAIを活用していますか。学生の多くは、課題やレポートで、いいのか悪いのかは別として、使うことが多いと思います。実際、8月5日付の読売新聞朝刊に、大学教員の男性がレポート採点の時、「誤字や脱字がある」と安心する妙な感覚に陥っていると投稿していました。

 

生成AIは、指示さえ適切に出来れば思った通りに課題への回答を仕上げてくれるのだから活用しないわけがない。単位さえ取れればいいと考える学生にとって、AIは最適な選択であるのかもしれません。

 

ただ、多くの大学教員が言うのは、AIを使っても優れたものになるわけでもないし、読みたいと思わないということです。長年の感覚にはかなわないということでしょうか。教員らを擁護したいわけではないですが、自分で考えないことが当たり前になってしまえば、ドラマの主人公のように自分のことなのに自分では何も決められない、わからない状態になってしまうような気がします。

 

筆者も、AIを使っています。特に就職活動において頼っている部分は大きくなっているのではないかと思います。業界分析や企業探しなど自分の知識量や語彙力では及ばなかった情報にたどり着くことができ、選択肢が広がったと感じています。また、自己分析においても、AIとのやり取り、いわゆる壁打ちを繰り返すことでこれまで曖昧だった自身の価値観や考え方が明確になり、新たな自分を知る機会になっています。

 

「AIはウソをつくものだ」という認識と「どう使いこなすか」を常に考える姿勢を持っていれば、良い効果を得ることにもなるでしょう。ですが、最初に紹介した作品の主人公のように、使い方や場面を考えず、すべて正しいと思うようになってしまえば、その利点さえも消えてしまうのかもしれません。

 

確かに、AIは学校の先生や親、上司のように怒ってくることも、否定することもしません。目まぐるしく動く社会の中で、悩みに寄り添って共感してくれ、そのうえで自分のことを肯定までしてくれる。そんな存在にすがりたくなる気持ちもわかります。ですが、両親や友人よりもAIが頼れる相談相手と言うのは何だか味気ないと思いませんか。

 

「これでいいんだ」と勇気をもらっていたはずなのに、気づけばAIの答えがないと自分では何もできなくなっている。のめり込んでいけばいくほど、自分を見失っていくのが対AIの本性なのだと思います。自身も利用者であり、使うなとは思いません。ですが、「付き合い方は考えろ」と言うことは肝に銘じておく必要があるのかもしれません。

 

テレビやインターネットも出てきた当初は、その影響力が人々にある種の恐怖を与えていました。それは、AIも同じです。どれだけの影響力や発信力を持っているのか、誰にもその限界はわからないからこそ、自分は「対AI」にどのような態度を保つべきかは常に意識することが大切だと思います。日常レベルまで普及してきた今、少しずつそれらの限界が明らかになりつつあります。

 

その中で、人々に与えるとは決して好ましいとはいえない効果も見えてきました。客観的で冷静な視点を持ち続けるために、そういったマイナス情報にも向き合っていくことが「対AI」において自分を見失わないカギとなるでしょう。

 

参考記事

8月5日付 読売新聞朝刊(大阪13版)11面「気流:誤字 本当に独力?チャッピーに相談」