かつては国内に限られたサブカルチャーと見なされていた日本のアニメは、いまや『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』のように、世代や国境を越えて親しまれる文化になりました。キャラクターたちの葛藤や成長に、自らを重ね合わせて育ってきた人も多いのではないでしょうか。『鉄腕アトム』の時代から、日本のアニメは単なる子供向けの娯楽にとどまらず、社会的なメッセージや哲学的な問いを投げかけてきたといいます。その表現は、単なる文章や写真以上に受け手に深く働きかけているのです。
このアニメの影響力を平和構築に活かすことはできないだろうか。そうした問題意識から今年の春学期に開講されたのが、慶應義塾大学の寄附講座「アニメ平和学:日本のアニメで『平和』をつくる」です。講義はオムニバス形式で進み、映像関係者をはじめとする多様な講師陣が登壇しました。タイにおけるBL(ボーイズラブ)文化の広がりなど、多角的な切り口からアニメや映像メディアの可能性が議論され、学生たちも普段の講義と比べてどこか活気のある表情で臨んでいました。
講義の終盤では、2回にわたって学生たちが「アニメを平和構築にどう活かすか」をテーマに、具体的な戦略を考案してプレゼンテーションに臨みました。一貫して論じられたのは、アニメが持つ「共感性」をいかに戦略に活かすかです。コメンテーターは、デジタルハリウッド大学の津堅信之特任准教授、元駐カナダ大使の門司健次郎氏、杉原佳尭氏の3先生が務められました。専門家による多角的な着眼点や評価から、単なる理想論にとどまらない、現実の社会での実装可能性にまで幅広い議論が展開されました。
「なぜ救世主はいつも男性なのか?」をテーマにした発表では、『鬼滅の刃』の禰豆子や『進撃の巨人』のミカサのように、圧倒的な戦闘力を持つ女性キャラクターが増えた最近の作品でも、世界を救う最後的な決断を下す役割は、依然として男性主人公に偏りがちであることが指摘されました。無意識の英雄像のバイアスを問い直し、多様な人々が主体となる物語構造の必要性が提示されました。
これに対し、津堅先生からは「海外からは、日本の作品は『魔法少女もの』のように女性が主体的に戦う作品が多いとも評価されている。その文脈を整理してみるとさらに深まる」との指摘があり、杉原先生からは「なぜ争いを始める側もいつも男性なのか?」という問いが投げかけられました。
一方、アニメ映画『窓ぎわのトットちゃん』を取り上げ、ドキュメンタリー調のアニメーションを平和教育の教材とする提案もありました。門司先生からは、「アニメが平和に貢献するという前提はあるものの、実際の平和教育に使うにはハードルもある」という指摘がありました。戦争や宗教の描写は、受け手の国や文化によって解釈が大きく分かれます。ある視点での正義が、別の立場からは別の意味に見えてしまうこともあるというのです。
さらに、アニメを一つの経済圏として位置づけたうえ、戦略資源として捉えることを提起するグループ、ミャンマーで避難民の方々と関わった経験を基に論じたグループなど、多様な切り口からアニメの平和構築への可能性が模索されました。
講義全体を通じて浮かび上がったのは、「そもそも平和とはどういう状態を指すのか」という根本的な問いです。単に武力衝突がない状態を意味するのではなく、異なる価値観を持つ他者とどのようにして境界をなくしていくか、あるいは共生していくかが焦点となります。SNSのアルゴリズムによって、似通った興味関心や価値観ばかりに触れる「エコーチェンバー」の状態による、コミュニティの対立や分断が問題視されている現代において、アニメは対話を切り開く手段になり得るのかもしれません。また、門司先生が指摘したように、必ずしも、新しいアニメを作る必要はなく、既に国境を超えた「ファンダム(ファンコミュニティ)」の熱狂的そのものを対話のハブとして生かす視点も重要です。
一方で、アニメが強力な影響力を持つメディアであるがゆえの危うさも注意しなくてはなりません。かつての歴史においては、プロパガンダや特定の価値観を押し付ける装置として悪用された事例もあります。偏った正義を一方的に流布させないことには注意しなければなりません。
ナチズムの狂気を描いた手塚治虫『アドルフに告ぐ』や、戦争に傷ついたロボットの心情と憎悪の連鎖を描いた浦沢直樹『PLUTO』といった作品は、正義と悪という単純な二元論でなく、他者の痛みや戦争の不条理を、キャラクターを通じ、自分ごととして問いかけてきます。その共感の力は、分断を乗り越え、多様な他者と共生するための「アニメ平和学」を実現させてくれるかもしれません。
参考記事参考:
2026年6月1日付 朝日新聞デジタル「アトム、ヤマト、エヴァ……慶大が取り組む「アニ
メ平和学」とは?」https://digital.asahi.com/articles/ASV5Q064KV5QUTFL00VM.html




