ちょうど2ヶ月ほど前、2月15日に筆者は東京・多摩市のホールでステージに上りました。昨年8月に広島で行った平和学習から何を学んで何を伝えたいのか、学習の成果を発表する平和サミットが開催されました。
筆者はトークセッションの役回りでした。ともに登壇した主催団体メンバーの阿部裕行多摩市長が切り出したのはミラノ・コルティナ冬季五輪での出来事でした。
「ウクライナ代表の選手がヘルメットに戦死した同胞の写真を貼って抗議したことがルール違反で失格となった。私はすごく残念だと思うが、どう思いますか?」
スポーツと平和の関わりをテーマとしてきた私たちのグループにとっては、まさにタイムリーな話題だったと思います。次に発言の番が回ってきた筆者の受け答えは、市長の流暢な喋りに比べたら、それはそれはお粗末なものでした。そこで、あのとき伝えたかったものの、言葉にできなかったことを文字に残すことにしました。
まずは論点を整理してみましょう。朝日新聞の2月13日付の記事によれば、男子スケルトンのウクライナ代表選手が、ロシアからの侵攻によって犠牲となった選手を追悼するヘルメットを競技時に被ろうとしました。しかしながら、それが五輪憲章に抵触するとして、国際オリンピック委員会(IOC)が待ったをかけました。その後、IOC側からは黒の腕章の着用などの妥協案が提案されましたが折り合わず、この選手はルール違反で失格になってしまいました。
ここで筆者が注目したのが、妥協案からわかるように、運営側は「追悼そのものを否定するわけではない」というメッセージを発し続けたことです。同時に、「政治的メッセージの表現会場にはしたくない」という譲れない一線も示し続けました。過去にナチスのプロバガンダに使われたという苦い歴史を持つオリンピックですから、「政治的メッセージ」の応酬になってしまうことは避けたかったのだと思います。
ただ、手放しで運営側を擁護しようとは思いません。欧米流といいますか、「ダブルスタンダード」が大きな問題だと考えます。1月にベネズエラを突如空爆したアメリカ、力を背景にガザや周辺地域に攻撃を繰り返すイスラエルのような国の出場が認められ、ロシアだけが締め出される現状はおかしいと思います。人権という点では、中国によるウイグルの弾圧なども、批判されて然るべきだと考えますが、大会側から制裁が下る様子は一向に見受けられないのは残念です。
そのうえで、選手の処分については、私は妥当だと考えます。ステージ上でこの問題について問われたとき、「ルールと情の問題はとても難しい」と口にしました。
オリンピック以外に目を向けると、例えば大相撲では、巡業中の土俵上で倒れた人を救護しようとした看護師の女性に対して、「土俵から降りてください」という館内放送が流れされことがあります。ルールを優先した硬直的な対応に批判が殺到しました。
しかし、ルールと情の衝突がドラマを作るのもまた事実です。箱根駅伝の88回大会では、9区鶴見中継所で懸命にタスキをつなごうとする神奈川大学の選手の姿が思い出されます。タスキまでは残り数メートルというところで倒れてしまう選手、繰り上げが迫る中で、審判員が繰り上げ回避をアシストしたシーンは今も感動の物語として語り継がれています。筆者が応援するプロ野球も日々ルールと情を巡って、「あれは贔屓判定ではないか」などとSNSでは論議が絶えません。
ルールの狭間で葛藤する私たちですが、結局どのような心持ちで選手を見守ればいいのでしょうか。人が規定したルールを人が運用する以上、そこには情が入り込み、恣意的な判断が下されてしまうのは仕方のないことです。ならばいっそのこと、大きく舵を切ってルールに触れそうなケースは全面禁止にするほかないのでしょうか。ただ、私にはこれが拙速な「白か黒か」の議論のように思えてしまい、未だにその解を導き出せていません。
参考
朝日新聞2月13日付朝刊