「牛糞で車が走る。」
そう聞いて驚く人は多いのではないでしょうか。実はこの仕組みは環境問題だけでなく、農家の収入増や女性の地位向上にもつながる、サステナブルなビジネスとしてインドで注目されています。その取り組みを進めたのが、
マルチスズキは近年、売上高を拡大し続けており、インド国内を走る車のおよそ4割が同社の車だといわれています。その販売を支えているのが、天然ガスを燃料とするCNG(Compressed Natural Gas)車です。現在では販売台数の約4割を占めています。
インドでCNG車が支持されている最大の理由は、燃料費の安さです。天然ガスはガソリンより約45%安く、年収50万ルピー(約90万円)以下の世帯が2億世帯ほどというインドでは、大変魅力的です。この車の特徴はそれだけではありません。CNG車は天然ガスだけでなく、牛糞から作られたバイオガスでも走れるのです。
インドではヒンドゥー教徒が人口の約8割を占め、牛は神聖な動物として大切にされています。そのため街中や農村に多くの牛がいるため、大量の牛糞も発生します。これを放置すると、二酸化炭素の約28倍の温室効果を持つメタンガスが発生します。ですが、回収して燃料として利用すれば、温室効果ガスの排出削減につながります。
さらに、
このビジネスは、農家の暮らしにも変化をもたらしています。マルチスズキはインドの乳業会社と提携し、農家から牛糞を買い取る仕組みを整えました。牛糞を売ることで、年間30万ルピー(約55万円)の収入を得る農家もあるそうです。農村部では、自ら収入を得た経験のない女性も少なくありません。牛糞を売ることで女性自身が現金収入を得られるようになり、家庭や社会での立場が変わるきっかけにもなっています。
環境問題だけでなく、貧困や女性の地位向上という社会課題にも同時に取り組めることが、このビジネスの大きな特徴です。その仕組みを実現するうえで、豊福さんが最も力を入れたのがインド最大級の乳業会社との提携でした。
牛糞を集めるには、全国の酪農家とつながる回収ネットワークが欠かせません。しかし、自動車会社だけでその仕組みを整備するのは困難でした。そこで豊福さんは、牛乳の集荷網を持つ乳業組合との提携を模索します。インドでは乳業組合のネットワークが全国に張り巡らされており、牛糞の回収やバイオガスプラントの普及にも活用できると考えたのです。
この提携を後押ししたのが、インド政府の姿勢でした。
また、日本とインド、それぞれの強みを生かせたことも成功の要因でした。日本には高い技術力や研究開発力があり、インドには数多くの牛と巨大な市場があります。その両方を組み合わせることで、このモデルを実現することができました。現在では、アフリカからも同じ仕組みを導入したいという相談が寄せられているそうです。
一方で、課題も残っています。牛糞からバイオガスを作り、
豊福さんは、有機肥料にも補助金を出すようインド政府に働きかけています。化学肥料の原料は輸入に頼るものが多いのに対して、有機肥料は国内で生産できます。「メイク・イン・インディア」を掲げる現政権にとってもメリットがあることを説明し、現在は少しずつ理解を得られるようになった段階だそうです。
最後に学生へのメッセージを伺うと、豊福さんは「現場に行くことが何より重要です」と話してくださいました。
ご本人は現在も頻繁にインドの農村を訪れ、「どこに、どれだけの人がいて、その人たちが何を考え、何を求めているのか」を自分の目で確かめ続けています。「特に発見が多い場所へ行くようにしています」という言葉の背景には、学生時代にインドを旅した体験があるそうです。
海外赴任先としてインドは敬遠されることも少なくありません。
現場には、インターネット上だけでは見えてこない人々の暮らしや声があります。そうした声に耳を傾けることが、駐在員としての仕事の一つなのだと感じました。サステナブルなビジネスは、土地や社会、人々の声に五感を研ぎ澄ませることで生まれるのかもしれません。
【プロフィール】
豊福健一朗(とよふく けんいちろう)
1993年慶大経卒。同年通商産業省(現経済産業省)入省。
参考資料
・日本経済新聞 「スズキ、インド10億人所得底上げ 牛糞燃料で農村支援」(2025年2月27日付 オンライン)
スズキ、インド10億人所得底上げ 牛ふん燃料で農村支援 – 日本経済新聞
・日本経済新聞 「豊田通商、トヨタ・スズキ車販売へ駐在員倍増 アフリカやインド開拓」 (2026年6月8日付 オンライン)
豊田通商、トヨタ・スズキ車販売へ駐在員倍増 アフリカやインド開拓 – 日本経済新聞
・スズキ 企業ニュース 「組織の改定と人事異動について」



