在日2世の思い

1月29日、京都市九条にある在日コリアン2世の家を訪れ、傾聴ボランティアを務めました。南岩本公園という新設の公園から小さな橋を渡ると、すぐに古い家が見えてきます。長年この場所で暮らしてきた金讃夏さん(86)は、1939年に大阪府の野田阪神駅近くで生まれました。両親の本籍は済州島の西帰浦市表善面兎山里です。

 

金さんは今でも自分の本籍を正確に覚えています。その理由を尋ねると、「昔は警察に身分を聞かれて、外国人登録がなければ捕まることがあった。そのときのために覚えておけと言われていた」と語ってくれました。生活の中で常に身分を意識せざるを得なかった在日コリアンの現実が、短い言葉から伝わってきました。

 

金さんの祖父は、朝鮮時代の身分制度で官僚を務めた貴族階級「両班(ヤンバン)」だったといいます。祖父が側室を迎えたことをきっかけに祖母は家を出て、金さんの父を含む三人兄弟を連れて日本へ渡ってきました。

 

1941年、戦時中に「大阪にいると空襲で皆死ぬ」という噂を聞き、家族は富山へ避難します。しかし、次男は嫁の実家に挨拶に行くため大阪に戻り、空襲に巻き込まれて亡くなりました。22歳でした。

 

1945年の終戦の後、父は仕事を求めて再び関西に戻り、京都で研師の仕事を始めます。朝鮮戦争が勃発すると武器需要が急増し、父の仕事は好調でした。そのおかげで、金さんは学校時代、立命館系列の学校に通うことができました。父は教育に非常に厳しく、金さんは虐待に近い叱責を受けながら育ったといいます。中学までは成績優秀でした。

 

しかし、高校2年生のとき、父の仕事が行き詰まり、家庭の状況は一変します。経済的な理由から大学進学を断念せざるを得ませんでした。さらに父は妾を迎え、家庭を顧みなくなったといいます。金さんは「朱に交われば赤くなる」と振り返り、京都市内で素行の良くない友人たちと行動するようになったそうです。

 

父は高利貸し、いわゆる「トイチ」から借金を重ね、返済できなくなると東京へ逃げ、パチンコ店で働いていました。しかし、妻や子どもが京都に残っていたため、再び京都へ戻り、溶接の仕事を始めます。金さんも父を手伝うようになり、3年ほどで一人前として働くようになりました。当時は進歩工業という会社に製品を納めていたといいます。金さんは懸命に働き続け、2人の娘を大学まで進学させました。現在は、孫がカナダの大学で地質学を学んでいるそうです。

 

現在、京都市の再開発計画により、この土地は買い取られ、金さんは2か月後にここを離れ、市営住宅へ移り住むことになっています。

 

長い人生の中で、戦争、貧困、差別、家族の問題と向き合いながら生きてきた金さんの話は、決して過去の出来事ではなく、今の社会にも続いている現実だと感じました。静かな口調で語られる一つ一つの経験には、在日2世として「生き抜く」ことの重みが込められていました。傾聴ボランティアとしてその声に耳を傾けることは、歴史を学ぶことでもあり、同時に、これからの社会の在り方を考える時間でもありました。