【後編】長岡花火の夜に知ってほしい――7歳の少年が見た長岡空襲、母との別れ

本記事は、【前編】の続きです。

 

空襲の後、谷さんは姉とともに長岡を離れた。戦後の学校生活も厳しかった。二部授業で、教科書や鉛筆も十分になく、冬でも裸足で通うような環境だった。それでも学び続け、大学へ進学。その後、小学校の教師になった。

一方、母が空襲の夜に家へ戻り、家財の入った箱の蓋を閉めて守ってくれたことで、家族は戦後、ポンプ屋の商売を再開することができた。けれど、その母は帰ってこなかった。「私は財産より母親が欲しかった」と谷さんは、やりきれなさを口にする。

教師になってから、6年生の社会科で戦争を扱う際に、自分の体験を話すことはあったものの、長い間、空襲の記憶を積極的に人に話すことはなかった。本格的に体験を語るようになったきっかけは、当時の館長から声をかけられたことだった。最初は断ったが、2010年7月、資料館で話すことになる。このことをきっかけに学校や地域で話す機会が増えていった。話すたびに、つらい記憶がよみがえる。涙が出ることもある。それでも「少しでも役に立つなら」と、語り続けるようになった。

85歳の時には、資料館のボランティアにも誘われた。「80代だから勘弁してくれ」と断ると、「90歳以上の人もボランティアをしている」と返された。それから5年。現在も資料館で来館者に自身の体験を伝えている。空襲を実際に経験し、語ることのできる人は少なくなっている。だからこそ、体験を記録として残していくことも大切だと考えている。

そんな谷さんには、長岡花火にも複雑な記憶がある。中学生くらいまでは、花火が嫌いだった。街が暗くなった後に響く大きな音と光が、空襲を思い出させたからだ。

「音と光が、あの空襲の時と同じでね。 花火は嫌いでした」

しかし、花火に込められた慰霊の意味を知り、少しずつ見方が変わった。花火師の嘉瀬さんがシベリア抑留から帰還した後、亡くなった戦友たちを思い、慰霊のために「白菊」と呼ばれる白一色の花火を打ち上げた。

「そういうような話を聞いて、まあ、楽しむというか、その花火の意味を考えて見られるようになりました」

かつて恐怖を呼び起こした光と音は、今では慰霊の思いを伝えるものとして受け止められている。

谷さんは、空襲の記憶とともに、今の暮らしのありがたさも説く。蛇口をひねれば水が出る。安心して眠ることができる。電気も使える。今では当たり前の生活も、戦争を経験した谷さんにとっては、決して当たり前ではない。

「普通の何でもないことが全部私にはありがたいわけね」

特別な言葉を若い世代に伝えたいわけではない。ただ、自分が経験したことを話す。聞く人が少しでも何かを感じてくれれば、それでいい。

7歳の時、炎の中を逃げた少年は、89歳になった今も語り続けている。

 

(模擬原子爆弾(パンプキン爆弾)、長岡空襲の前に、原爆投下の訓練として投下された爆弾。4人が命を落とした。)

(M69焼夷弾子弾爆弾、木造家屋を効率よく焼き払うために使用された。谷さんは、焼夷弾に対して防空壕は無力。蒸し焼きになると語った)

(デジタルコンテンツ、リニューアルにより新設され、体験者の当日の足跡を追うことができる)

(資料館を訪れた人が思いを綴る「みんなのノート」、様々な言語で感想が書かれてきた)

 

*展示品の写真は長岡戦災資料館の許可を得て掲載しています。

参考資料:

・長岡戦災資料館 https://nagaokasensai.net/