【前編】長岡花火の夜に知ってほしい――7歳の少年が見た長岡空襲、母との別れ

夏の夜空を彩る長岡の花火。その美しい光の裏側には、かつて炎に包まれた街の記憶、復興と慰霊への祈りがある。1945年8月1日夜、長岡市街地はアメリカ軍による空襲を受けた。大量の焼夷弾が投下され、市街地の多くが焼失。1480人余りの市民が亡くなった。

その記憶を伝えてきたのが、長岡戦災資料館だ。空襲に関する資料や遺品などを展示し、当時の出来事を次の世代へ伝えている。今年、資料館はリニューアルされた。近藤信行館長が大切にしたのは、展示物そのものが語りかけること。説明を加えすぎず、残された資料を見た人が、それぞれに感じ、考えることを期待している。

(長岡戦災資料館の近くにある「長岡空襲爆撃中心点の碑」、今年5月に現在の場所に移転した)

その資料館でボランティアを務める谷芳夫さん(89)は、7歳で長岡空襲を経験した。当時は国民学校2年生。燃え広がる街を逃げた。81年たった今も、あの夜の記憶は鮮明に残っている。

(7歳の時に長岡空襲を体験した谷芳夫さん(89))

1945年8月1日の夜、谷さんは家で眠っていた。空襲が始まると母に連れられて家の外へ逃げた。周囲では火が燃え広がり、人々が一斉に避難していた。姉も合流し、谷さんは姉に背負われて逃げた。その途中、母は突然、2人に「お前たち早く逃げろ」と言って、家の方へ戻っていった。

「母ちゃん!母ちゃん!」。谷さんは必死に呼んだ。しかし、大勢の人が逃げる中で母の姿は見えなくなった。結果的には、それが母との最後の別れとなった。

姉に背負われながら、谷さんは必死に逃げ続けた。途中、焼けた建物が大きく揺れている場所に出た。人々が立ち止まる中、谷さんは姉に「姉ちゃん行こう!」と促した。姉が走り出した直後、建物が崩れ落ちた。少し後ろにいた人たちは、崩れた建物の下敷きになった。「もし姉ちゃん蹴っ飛ばさなければ、私も姉ちゃんと、一緒のところで死んでいたと思う」。ほんの一瞬の判断が生死を分けた。

さらに逃げ、ようやく田んぼまでたどり着いた。そこには、逃げてきた多くの人がいた。振り返ると、長岡の街は真っ赤に燃えていた。空からは焼夷弾が次々と落ちてくる。その光景を、谷さんは「花火みたいにバンバン」と振り返る。

翌朝、裸足で駅の方向へ歩いた。街はまだくすぶっており、焼け跡には亡くなった人の姿もあった。昨日まで暮らしていた街が、一晩で焼け野原になっていた。7歳の谷さんは、姉とともに長岡を離れた。そこで待っていたのは、空襲とはまた違う、厳しい戦後の暮らしだった。

(空襲で燃える前の実家の様子を指さす谷さん)

(当時の地図をもとに空襲当日の様子を語る谷さん)

(後編へ続く)