歴史的な建造物や文化財が残る京都。「京都は空襲を免れた街である」「文化財を守るため、米軍は京都を爆撃しなかった」といった話を、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。こうした言説は戦後長く流布し、「京都に空襲はなかった」というイメージが社会に定着していきました。しかし、これは事実とは異なります。
実際には、京都も第二次世界大戦末期に空襲を受けています。その中でも、特に大きな被害をもたらしたのが、1945年6月26日に発生した西陣空襲です。この出来事は、長らく十分に語られてきませんでした。
この誤解の背景としてしばしば挙げられるのが「ウォーナー伝説」です。これは、日本美術に造詣の深かった米国の美術史家ラングドン・ウォーナーが文化財リストを作成し、それが米軍の空襲計画に影響を与えた結果、京都や奈良は爆撃を免れたとするものです。戦後まもなく新聞報道を通じて広まったとされ、多くの人々に事実のように受け止められてきました。しかし、近年の歴史研究によって、この説には史料的根拠が乏しいことが明らかになっています。
西陣空襲は、「京都に空襲はなかった」という神話を覆す決定的な事実です。1945年6月26日午前9時40分頃、B29爆撃機1機から投下された7発の爆弾が、上京区智恵光院通下長者町付近を中心に着弾しました。西陣警察署の記録によれば、死者43人、重軽傷者66人を出し、家屋被害は全壊・半壊・一部損壊を合わせて292戸に及びました。計画的な大規模爆撃ではなく、単発的な攻撃であったにもかかわらず、地域社会は甚大な被害を受けたのです。
この空襲の記憶は、現在も西陣の町に点在していると知り、実際に足を運んでみることにしました。金閣寺から車で約11分、3.2キロ程の場所にある山中油店(京都市上京区)では、店先のショーウィンドウに爆弾の破片が展示されています。これは空襲当時、近隣の寺院の井戸に落下した不発弾の一部とされています。
山中油店
(2026年1月20日筆者撮影)
また、辰巳児童公園には「空爆被災を記録する碑」が設置されています。死傷者数や家屋被害数が具体的な数字とともに刻まれていることが特徴であり、西陣警察署の記録として、即死者43人、重傷13人、軽傷53人、計109人の死傷者が出たこと、さらに全壊・半壊・一部損壊を合わせて292戸の家屋被害があったことが示されています。西陣空襲が局地的な爆撃でありながら、いかに深刻な被害をもたらしたのかが分かります。
辰巳児童公園
(2026年1月20日筆者撮影)
「京都に空襲はなかった」という神話を越えて、古都が経験した戦争と正面から向き合い語り継いでいくことが必要だと感じました。
参考新聞
「(戦後80年)「西陣空襲」の痕跡、忘れない 死傷者100人超、姉失った水口章さん/京都府」(『朝日新聞』2025年6月24日付)2026年1月26日最終確認<https://xsearch.asahi.com/kiji/detail/?1762859205051>。
「西陣空襲80年『知ってつないで』 上京、『記録する碑』で献花式 /京都府」(『朝日新聞』2025年6月27日付)2026年1月26日最終確認<https://xsearch.asahi.com/kiji/detail/?1762859273730>。
「[戦後80年 私の戦争]壊された日常 空襲が 飢えが 家族奪った」(『読売新聞』2025年6月28日付)2026年1月26日最終確認<https://yomidas.yomiuri.co.jp/yomiuri/articles/9230803>。

