犠牲の子 教訓のために生まれたのではない

「一番安全で安心できるはずの学校で、未来ある子どもたちの尊い命が失われる事故を招いてしまった」。1日、宮城県石巻市の河北総合センターで開かれた大川小学校の遺族説明会で、亀山紘市長が遺族に向かって頭を下げた。東日本大震災から3187日目の謝罪。学校の管理下で我が子を失った遺族たちの思いは複雑だ。

2011年3月11日、石巻市立大川小学校の児童と教職員が津波に襲われた。80人が死亡し、今も4人の児童の行方が分かっていない。同小に津波が襲来したのは地震発生からおよそ50分後。その間、高台へ避難することなく校庭にとどまっていた。津波で浸水被害に遭った市内24の小中学校で、学校の管理のもとで子どもが亡くなったのは同小のみ。震災直後の遺族説明会で亀山市長は「自然災害における宿命」と発言している。同年6月に開かれた第2回の説明会では開始から1時間で市側が話し合いを打ち切り「説明会はもう実施しない」と一方的に通告した。
遺族の一部が震災から3年後の14年に市と宮城県を仙台地裁に提訴。一審では市側の防災体制に過失はなかったとされたが、18年4月の二審判決で学校や市教育委員会の防災対策の不備による過失が認められた。市側がこれを上告したものの、今年10月に最高裁が棄却し、原告側の勝訴が確定していた。

亀山市長はこれまでの市の対応を振り返り「説明会は遺族に寄り添う形で行ってきたとは言えない。丁寧にしてきたという印象は私にもなかった」と省みた。また、遺族から「事故は教員による人災と捉えていいか」との質問に対して「判決では震災前の時点で過失があったと認定された。人災と捉えている」とした。

説明会終了後には次女を亡くした遺族から「謝罪の言葉を聞きに来たわけではない。謝るのなら学校へ行って子どもたちにごめんなさいと言ってほしい」と涙ながらに訴えられ、急きょ会場から車で15分の距離にある大川小学校の校舎へ。亀山市長は最高裁が上告を棄却した後に慰霊のため訪れていたが、遺族と共に訪問するのは初めて。慰霊碑の前で手を合わせ、普段は立ち入り禁止になっている校舎内にも遺族の案内で入った。訪問後、市長は「(遺族と)一緒に進んでいくための大きな一歩になった」と記者団に語った。

今回の説明会は市側が敗訴したのを機に設けられたもので、参加した遺族は計17人にとどまった。市長は今後、欠席した遺族に対しても個別に訪問して謝罪するとしているが、遺族の声は裁判の勝訴や謝罪の態度を手放しに受け入れるものではない。朝刊各紙には遺族の複雑な心境が掲載されていた。

6年生の次女を失った母親は「8年半が経ってもずっとずっと時間が止まったままです。一生この辛さを親として背負っていかなければならない」と悲しみが癒えない思いを明かした。また市長に学校での謝罪を訴えた遺族は「今回の謝罪を受け入れるつもりはない」と語る一方「(大川小が)将来の学校防災を進める拠点になってほしい」と市側との対話を進めていく姿勢も見せた。遺族会代表の佐藤敏郎さん(56)は「何年かかってもいい。親として真相が知りたい。これからやっとスタートが切れる」と語った。

これまで大川小学校を10回ほど訪れた。遺族の方から「助かっていれば見ていたであろう光景だ」と案内された裏山は、ゆっくり歩いても1、2分程度。救えたはずの命が何故奪われたのか、疑問は尽きない。市は今後、どのような防災体制を取っていくのか。謝罪があったとはいえ、その後の行動こそが問われている。

大川小学校の裏山から見た光景。奥に見える校舎から歩いて1、2分程度の場所にある。9月11日、宮城県石巻市で筆者撮影。

筆者は昨日まで石巻を訪れていた。市内には大川小とは別に、幼い子どもを亡くした遺族がいる。その方に市内を案内していただいた。その時聞いた言葉が忘れられない。

「うちの子は教訓のために生まれたのではない。私の時間はあの日から止まっている。だから今もあの日の話をしているのだと思う」

震災からまもなく8年9カ月。今も時は止まっている。

参考記事:
2日付朝日新聞朝刊(東京14版S)25面(地域面宮城版)「大川小訪問 石巻市長が謝罪」
同28面「石巻市長、大川小遺族に謝罪」
同日付読売新聞朝刊(東京13版)25面(地域面仙台圏版)「『尊い命 守れなかった』」
同31面「大川小遺族に石巻市長謝罪」
同日付日本経済新聞朝刊(東京13版)39面「大川小校舎で石巻市長謝罪」
11月27日付朝日新聞(電子版)「オピニオン&フォーラム 大川小 遺族の思い
同10月12日付「大川小の事前防災不備、確定 最高裁決定 全国の学校、影響も」

参考資料:
2日付河北新報朝刊(16版)23面「大川小遺族へ謝罪」
宮城県「大川小学校事故検証報告書」