朝刊を読んでいると無意識のうちに宮城県の地名を探している。仙台、石巻、気仙沼。最近は台風19号で大きな被害を受けた丸森や角田、大郷など。離れていても故郷への思いは変わらない。本日の朝日新聞には、気仙沼市の震災遺構に関する記事が掲載されていた。一読して、8年前の光景を思い起こさずにはいられなかった。
魚が腐ったような異臭の中に立ち尽くす。足元には汚泥と、持ち主を失った家具や書類。目の前には横転した車や漁船、太い松の幹、住宅の屋根。東日本大震災から1週間後に訪れた仙台市若林区の光景を生涯忘れることはあるまい。「海沿いの被害はどうなっているだろう」と軽い気持ちで沿岸部を訪れた当時中学1年生の自分の愚かしさも。
震災から5年後、筆者は首都圏に進学した。故郷の仙台では初対面の際に「あの日何をしていましたか」と訊くことがしばしばある。だから私も大学で始めて会った同級生らには「あの時何してた?」と尋ねた。返ってくるのは「覚えていない」。「東北は既に復興したのだろう」と思い込んでいる者もいた。いささかの落胆を覚えたが、被災地の光景を目の当たりにしていなければ無理もないかもしれない。
入学直後に起きた熊本地震で気持ちが変わった。ある同期生が「地震で学校を休めるなんて羨ましい」と口走った。対岸の火事ほどにしか捉えていない様子に憤りと危機感を抱いた。
一時期、筆者は負い目を感じていた。軽い気持ちで発災直後の被災地に足を運んだこと。家族も家も失うことなく、特段の被害はなかったことに。こんな自分にできることはあるのか。5年間悩み続けていた。
大学1年生の夏に大きな転機を迎える。津波で甚大な被害を受けた宮城県名取市閖上地区を訪れた。ここで出会った男性は、津波で自宅を流され仮設住宅で生活していた。「物質的な復興を遂げても心の復興は実現し得ない。真の復興とは何か。これからの時代を支える君達に考えて欲しい」。この言葉で迷いが吹っ切れた。「あの日仙台にいた人間として、震災を伝える役目を担おう」。決意を固め、月に1度東京から宮城県の沿岸部に通った。防災知識と技能を習得するために防災士の資格も取得した。2年生になると東京近郊に住む友人を連れて共に被災地を訪問した。
宮城県内の沿岸部には多くの震災遺構がある。例えば津波で194名が亡くなった仙台市若林区荒浜地区には、旧仙台市立荒浜小学校の校舎が保存、公開されている。4階建ての校舎は2階まで津波で浸水したものの、屋上に避難した320人の命が救われた。地区は災害危険区域に指定され、住宅再建は叶わない。それでも震災前荒浜に住んでいた方の話を聞けた。「家は無くても季節風で故郷の空気を感じる。夏の灯篭流しや3月11日の集いで地域住民が再会する。ここがふるさとであることに変わりはない」。街の姿が無くなった今、震災遺構はかつての故郷を今に伝える「生き証人」である。今年8月からは津波で流失した住宅基礎群の公開も始まった。遺構は今日も、津波の威力を伝え続けている。
最初に触れた気仙沼の震災遺構というのは気仙沼向洋高校である。今年3月そして先月と、友人を連れて2回訪問した。同高は震災当時の状況をほとんどそのまま残している。校舎3階に突っ込んだ軽乗用車や、渡り廊下に積み重なったトラックや家屋の一部。来館者は一様に目を見張る。館内に展示されている来館者のメッセージには「ここを残してくれてありがとう」「また来ます」と記されていた。震災遺構が、次世代へのバトンを渡す役目を担っていると感じた。
一方、遺構について、なかなか表に出ない声もある。名取市閖上地区では震災後しばらく残されていた中学校の校舎や住民が避難した歩道橋がかさ上げ工事に伴い撤去された。「津波で家を失ったショックも大きいが、思い出の残った場所まで撤去されるショックも大きい」と長年地元に住む住民はこぼす。一方、荒浜小学校の保存に当たっては、小学校前で避難誘導していて犠牲になった男性の遺族が「(学校を見ると)思い出して辛い」と訴えていた。それでも遺構は残された。また、気持ちの整理がつかず、未だに被災地へ足を運べない人もいる。
筆者自身も、ただ宮城へ通うだけでよいのかと悩むことがある。
8年半が経っても、震災は終わっていない。
参考記事:
31日付朝日新聞朝刊(東京14版)31面「てんでんこ 遺し、伝える3」
同日付読売新聞朝刊(13版S)33面「泥の山『助けて』」
参考資料:
仙台市「震災遺構 荒浜小学校」