大学構内で見かけるボランティアサークルの勧誘、集団面接で度々挙がるボランティア経験の数々。お祭りのゴミ拾いから募金活動、はたまた発展途上国で井戸を掘るなんてものまで様々耳にしてきましたが、残念ながら私が抱く感想は「よくやるなぁ、お金でないのに。すごいや」です。
2020年東京五輪のボランティア問題、いまだに議論が続いているようですが、皆さんの中に参加する予定の方はいらっしゃいますか。そんな方にお聞きしたいのですが、もし、1日8時間、10日以上で日当15000円(ものすごくざっくり、中堅社員の給料の日割り換算くらいです)が支払われる要項とそうでない要項があったとして、どちらに応募するでしょうか。
本日の読売新聞朝刊、スポーツ面の左端に掲載されたのは、サッカー第18回アジア競技大会でのボランティアに関する記事。活動は基本的に6勤1休、研修は二ヶ月間だそうです。このボランティアに参加した大学生は、「大会を成功させたいから、休みが少なくても大丈夫」とにこやかに語ったと言います。ちなみに日当は30万ルピア、日本円でおよそ2300円と一見安く思えますが、開催地であるインドネシア・ジャカルタの物価で言えば一般企業の中堅社員並みなのだそう。組織委員会はこれを、「報酬」ではなく「食費と交通費」の名目でボランティア一人一人に支給しました。
なぜ素直に雇わないんだ。なぜそこまでボランティアにこだわる。
まあ、次のオリンピック召致など事情が色々あるようですが、なんだか色々あべこべな気がしてしまうのは私だけでしょうか。余談ですがそこに約30000人という応募者がいたそうです。「ボランティアに自覚や、責任といった感情が生まれ、熱心に業務をこなすのも当然と言えた。」と記事は述べますが、そりゃあお金が発生してしまったわけですからそうもなりましょう。
個人的には、労働には対価が払われるべきだと考えています。奉仕の心や親切心、大いに結構。立派なことです。しかしそれが働く側と働かせる側、そしてある程度のウェイトの労働がある場合、ある種の「責任」と「約束」として、その証明としての「賃金」は発生するべきです。当人たちが「いいから、いいから」と言えばいいというわけにはいきません。それがお互いに対する敬意であり、自分がやったことへの責任になるのではないでしょうか。
東京五輪ボランティアの件で問題なのは、80000人ものスタッフを最初からすべて無償で用意しようという、考え方そのものにズレがあるように思えてなりません。私にはどうしても、親切心の上にあぐらをかいているようにしか見えません。
賃金は受け取らず、気持ちだけで。
ぱっと見これほど立派な文句はありません。けれど、その気持ちと行動にどれだけの価値があるのか、与えるにせよ受けるにせよ、もう少し考えてみてほしいのです。
参考記事:
読売新聞朝刊(大阪13版) 21面(スポーツ) 「2020への教訓 下 ボランティアを一つに」