「無」のすすめ

忙しい、という言葉が、どうにもしっくりきません。スケジュールを見て、一か月の予定がびっしり詰まっていることに気が付いた途端、渋柿を食べさせられたような顔になってしまいます。充実しているんだなと捉えることもできるのだけれど、そういうときほど何も考えずにぼうっとする時間がほしくなってしまいますね。

今朝の朝日新聞に、興味深い投書を見つけました。三重県、50代無職の女性からです。彼女は以前から写経に興味があったそう。「檀家の皆さんへ」と寺からの写経教室のお誘いが舞い込んだのはそんなとき。けれどいざ実際に写経をしてみると、これがなかなかに難しいのだそうです。住職によれば、書いている間は、ご先祖様のことも、この後の予定も、早く書こうきれいに書こうなどということも、一切何も考えてはいけないといいます。すべての心を「無」にし、一文字一文字に向き合うことが肝要なのです。そうはいうものの、考えるなと言われたことほど考えてしまうものですよね。投稿者の女性も苦心したそうです。何しろ「無にならなければ」と考えることもいけないのですから。

そんな中で、彼女はあることに気付きました。般若心経には思いのほか「無」という文字が多いのです。それを住職に言ったところ「だから無なのです」と。「無」になるというのは一見簡単そうですが、いざ意識してみようとすると思いのほか難しい。かと思えば、気を張らなければいけないときに、何かが突然ぷっつり切れて、ぽかんと「無」になってしまうこともしばしばです。そう考えると、写経とは仏教において、意識して「無」になることで自分の精神をコントロールするための修行なのか、と得心が行きました。思えば仏教は修行によって死後浄土を目指す宗教ですから、写経が修行というのもさもありなん。

忙しいときに、気持ちまでせかせかしてくたびれてしまうのも、自分の気持ちをコントロールできなくなってしまうからなのかもしれません。近頃書店やコンビニで、写経や写仏のための書籍を見かけることが増えました。若い女性の間でも、書籍だけにとどまらず、投稿者の女性のように実際に寺院に赴いて写経をするのがちょっとしたブームになっているようです。自分と同じように「何も考えずにリラックスしてみたい」という気持ちで始める方々も、きっと体験した後に「思っていたのとは違うんだな」ときっと感じているのでしょう。

写経、思っていたのとはちょっと違いましたけれど、それでもなおのこと興味が湧いてしまいました。リラックスではなくて、自分を律するための修行。考えなくていいことまで考えてもやもやしてしまう、いったん気持ちをリセットしたい。そんなひとには特にいいのではないでしょうか。

まずはコンビニの一冊からでも。

参考記事:
2日付 朝日新聞朝刊(大阪10版) 27面(生活) 「ひととき ああ無・無・無・・・」