皆さん、「自分には居場所がない」と思ったことはありませんか? 家庭や学校、職場…本来ならば自然と居場所になっているようなところでも、なかなか馴染めずに窮屈な思いをすることはしばしばあります。人により、それを顕著に感じてしまい、自分にはどこにも居場所がないと思ってしまうこともありますよね。
人と人とのつながりの希薄さが騒がれる昨今。障害を持っている方や貧困な家庭に暮らす子供たち、家族や職場仲間のいないお年寄りの居場所になる「作業所」が新聞に載りました。
京都府立大学から徒歩数分、ハッピーハウス葵では、地域の人々の居場所を目指して様々なことに取り組んでいます。一見普通の民家ですが、精神障害者が働く作業所、高齢者のための配食サービスの拠点、「子ども食堂」まで開くマルチな施設です。スタートは作業所でしたが、通っている人にあまり高い工賃も払えない代わりに、「きちんと食べさせてあげたい」という施設長細見正枝さんの気持ちから昼食を出し始めたことがきっかけです。
開業から2年、今ではお年寄りや障害者だけではなく、地域の家族連れからも愛される立派な居場所になっています。学生のボランティアが集い、幅広い人間関係を築くことができるのもまた、この場所が地域から愛されるポイントでしょう。
けれどここで、私はどうしても寂しい気持ちになってしまいます。記事にあるような活動は温かく微笑ましく、これからの社会には必要な場所ですが、その反面、作ろうと思わなければ居場所ができないのかな、とも思ってしまいます。
始めにも書いたように、家族や学校、職場や地域は、おのずと人の居場所になりうるはずです。それでも現代人は孤独を感じ、インターネットや企業の企画を通した人間関係作りの場を求めます。それで自分の生きやすい場所を作ることができるのなら、そのような試みは成功したということでしょう。
かつては、同じクラスにいれば仲良くなれたかもしれません。隣の家に住んでいれば、仲良くなれたかもしれません。それが希薄になった今、何とかして自分の居場所を作ろうとする。作ろうと思わなければ作れない「現代的居場所」というものの影を感じてしまいました。
参考記事:
22日付 朝日新聞朝刊(13版) 27面(京都) 「作業所 みんなの居場所」