コンクリートだけになった校舎。中はからっぽだ。校舎とわかるのは壁に取り付けられた黒板が残っているからだ。あそこには渡り廊下があったのだろう。卒業制作でとしてコンクリートに描かれた校舎の絵から当時の校舎を想像する。宮城県石巻市の大川小学校を先日訪ねた。84名の児童と教職員が命を落とした場所を前に何も言葉が出なかった。私が見た光景を今、どう書いたらいいのか、正直わからない。
東日本大震災で多くの犠牲者が出た建物が今も現存している例は珍しい。大切な人を失った場所を2度と見たくないと思う人が多いからです。「見たくない」からすぐに壊すのか。「防災に生かす」ために保存するのか。今日は震災遺構について考えます。
岩手県陸前高田市には4つの震災遺構が保存されています。市は「建物に居た方で犠牲者が出ていないこと」、「かさ上げの予定地区ではないなど、復興まちづくりに支障がないこと」などを前提に保存が決まりました。そのうちのひとつ、道の駅高田松原はさび止め等も施されずそのまま残っています。
43名の犠牲者が出た宮城県南三陸町の防災対策庁舎は震災遺構として残すかどうか、結論を未来へ託しました。この建物の2階にある放送室から津波が来る直前まで、職員が防災無線放送で避難が呼びかけましたが、この職員も津波の犠牲となってしまいました。庁舎を解体するのか、保存するのか、大きな議論になりました。当初は保存に膨大な費用がかかるとして解体する予定でした。しかし、国が震災遺構の保存に関して補助金を出す方針を決め、南三陸町は防災庁舎を候補にあげました。その後、町民のパブリックコメントや町議会の請願により、建物は宮城県が2031年まで県有化することになっています。2031年までは一時保存され、そのあとどうするかは改めて議論するそうです。答えを急がない、ということが今の時点での答えだったのでしょう。
冒頭にあげた大川小学校は震災から5年経ったころに保存することを決めました。今は遺族が語り部として、伝える活動をしています。
震災遺構は残せるものは残し、意見が分かれるものは結論を急がないことが大切だと思います。今すぐに全部を壊してしまっては何も残りません。壊したあとに残しておけばよかったでは遅いからです。もちろん遺族の方々の感情を考えないわけではありません。しかし、心の復興とともに、考えにも変化が出てくるかもしれません。広島の原爆ドーム、あの建物が語ることが多いように、被災地に残された建物は「物言わぬ語り部」です。
犠牲者のいない遺構も震災の教訓になります。ただ、亡くなった方に思いをはせたり、悲しみを想像したちすることは難しいと思います。
戦争を体験した世代が減っていくように、東日本大震災を知る世代もいつかはいなくなってしまいます。そのときに防災や減災、避難の大切さを伝えるのは震災遺構を見ることなのではないでしょうか。
今回、陸前高田、気仙沼、南三陸、石巻、女川へ行きましたが、足を運びにくいのも確かです。地元の人からすれば観光客。行っていいのだろうかと考えたこともあります。しかし、石巻に住む友人が「せっかく来てくれたのだから、ちゃんと話したいし、ちゃんと見てほしい。いろいろなところに連れて行ってあげる」と言ってくれました。出会ってから4年経ち、本人の口から当時の様子や感情を聞くのは初めてのことでした。知らないからこそ見て、聞かないといけないのだと思うことができました。
経験していない人が知るには、そこで「見る」「聞く」が欠かせません。未来を見据えて「物言わぬ語り部」を遺したい。そして、その場を訪れ、祈り、考える場にできたらと思います。
参考記事:
14日付 朝日新聞朝刊(東京13版)「『遺産』として残る爪痕」34面(文化・文芸)