知覧の若者が残した言葉を辿って あなたはどう生きる?

「何のために生まれて 何をして生きるのか」
誰もが一度は耳にしたことのある、『アンパンマンのマーチ』の冒頭の歌詞です。

現在放送中のNHK連続テレビ小説『あんぱん』では、アンパンマンの生みの親・やなせたかしさんとその妻・暢さんをモデルに、「逆転しない正義」を体現したアンパンマンの誕生に至るまでの葛藤と歩みが描かれています。最近の回では戦争の影が一段と濃くなってきました。そうした背景を知ると、やなせさんの書いた歌詞は子ども向けの歌でありながら、大人の心にも鋭く問いかけていることに気づかされます。

昨年、祖父の死をきっかけに、祖父母が育った鹿児島を巡りました。その中で訪れたのが、知覧特攻平和会館です。会館には二つの駐車場がありますが、一方は満車でもう一方に誘導されました。入口と館内の展示では列ができるほど多くの人が訪れていました。

知覧は太平洋戦争末期に特攻作戦の拠点となった地です。真珠湾攻撃から半年後、日本はミッドウェー海戦で一挙に多くの熟練パイロットを失い、戦況が大きく傾きました。そして、アメリカ軍の沖縄上陸を少しでも遅らせるため、不利な状況を打開する最後の手段として、特攻作戦が始まります。17歳から32歳までの若者、約4000人が特攻隊として命を落としました。

展示には手紙や遺品、寄せ書きなどが多く並び、特に目についたのが「がんばレ」や「必死必殺」「わらっていきます」という言葉です。手紙からは当時の意識や価値観が伝わってきます。特攻に志願した若者たちは、自らの死が避けられないことを知りながら、残される家族に不安を与えまいと、あえて明るく振る舞おうとしたのかもしれません。検閲はあったにせよ、本音を押し殺した彼らの思いを想像すると胸が締めつけられます。

語り部さんの講話の中で、一通の手紙が紹介されました。

4歳と3歳の子どもを残して出撃する父親が書いたもので、すべてカタカナです。当時、国民学校に入ると最初に習うのがカタカナでした。父親はどんな人間で、どんなことを言いたかったのか。少しでも早く幼い子供たちに分かってもらおうと、カタカナで書いたのでしょう。

「いつでもお前たちを見ている。よくお母さんの言いつけを守って、お母さんに心配をかけないようにしなさい。そして大きくなったならば、自分の好きな道に進み、立派な日本人になることです」

親の言いつけを守るのが当たり前の時代に、自由に生きろという一文には、子どもを思う気持ち、未来への希望が滲んでいます。

館外には特攻隊員たちが出撃するまで暮らしていた三角兵舎が復元されています。この中で隊員たちは、日の丸に寄せ書きをしたり、故郷へ送る遺書や手紙を書いたりしていたといいます。

三角兵舎の内部(2024年10月13日 筆者撮影)

海軍零式艦上戦闘機の展示(2024年10月13日、筆者撮影)

展示物は多く、正直に言って数時間では到底すべてを見きることはできません。しかし、実物の記録を直接見てほしいです。壁一面に並んだ顔写真には自分と同年代、あるいは年下の顔も多く見られ、言葉を失います。その人が生きていた証が残されていて、それを直接見られることは、今後の考えや生き方にも影響を与えるでしょう。

終戦から80年。数字としては長いように見えますが、決して遠い過去ではありません。ここ数年の世界の動きを見ても、平和とは決して当たり前のものではなく、私たちの意識が緩んだ途端に脆く崩れてしまうものであることを思い知らされました。

記録に触れ、記憶を継ぎ、そして問い続けることが重要だと考えます。

「何のために生まれて、何をして生きるのか」。

一度問い直してみませんか。

 

参考記事:

朝日新聞デジタル 5月7日付「特攻を恋愛物語で描いた映画『あの花』 原作者が入れたかったセリフ

朝日新聞デジタル 5月4日付「継母を最後に『母』と呼びたかった 特攻死の18歳が残した言葉の束

読売新聞オンライン 5月4日付「知覧から飛び立った特攻隊長の遺書『人生の総決算 何も謂ふこと無し』…81歳次女『命の尊さを語り継ぐ』

日本経済新聞電子版「『特攻隊』の記憶、若者がつなぐ 作戦開始から80年』

参考資料:
NHK「あんぱん

知覧特攻平和会館