毛布にも、凶器にも。-言葉と向き合った私の4年間-

言葉は毛布にも、凶器にもなる。

私が4年間の大学生活で文章や言葉と向き合ってきて、考え抜いたうえでの結論です。

サークル活動やゼミ、この「あらたにす」の活動を通して、自分の思いや考えを表現する言葉、人間関係や何気ない会話での言葉など、私は言葉に悩まされたこともあるし、言葉に励まされてもきました。

「ごめん、明日行けなくなった」

予定のキャンセルの連絡。文面だけで謝罪の意はすごく伝わってくるのに、どうしても許せない自分がいたこともありました。「言葉ではいくらでも言えるからな」と。

 

一方で、私が悩んでいて、友人に相談した時のこと。

「もっと自分らしくというか、みやびらしく気楽に考えてみたら?」

悩みに寄り添ってくれる友人の言葉に何度も救われました。

 

 たった一言で傷つけられ、たった一言が自分の救いになる。

簡単に他人に影響をもたらすことができるのが言葉の凄さであり、言葉の無念さでもあるような気がしています。そして、その言葉はときにその人の人間性を表すこともあります。

 著名人のエッセイを読むと、人柄がよく表れているなと思います。文章に勢いがある人、悩みながら苦労を重ねたことが分かるような繊細な文章を書く人、どこかひねくれていて、でも自分のなかに確固たる意思があって、それを文章で伝えてくる人。同じ言葉でもそこから人柄が透けて見えるのは、本当に面白いなと思います。

 あらたにすの活動では常に、「何を伝えたいか」を考えたうえで、自分の日常の視点を加えて書くことを意識してきました。それが伝わっていたのなら幸いです。「私らしさ」は自分ではわからないけれど、きっと他の人と違うなにかがあったのではないかと思っています。

 

 そして、言葉のあり方を結論づけた今、学生を終え、新たな道へと進みます。

言葉を毛布として使えるように、言葉で人を包み込めるような人間になりたいと思います。

本稿で、あらたにすでの活動を終了します。今までご愛読いただき、ありがとうございました。