恋愛に追われる男たち 「普通」になりたいだけなのに?

「周りに彼氏募集中の子いたりしない?いたら紹介してほしい!」

最近やたらに中学からの男友達に女子を紹介してほしいと言われる。クリスマスも近づき、カップル向きの場所が増えたり恋人ができやすい時期だったりというのは、なんとなくわかる。ただ、今まで色恋沙汰には興味のなかったような男が、「客観的に見て直した方が良いと思うところがあったら教えてほしい」と頼んでくるほどの真剣ぶりである。年頃になれば彼女が欲しいというのも自然なのかもしれないが、何かもっと根深い問題があるのではないだろうか。

そう思うようになったのも、大学の「ダイバーシティと社会」という講義の延長で読書会をするなかで、『「非モテ」からはじめる男性学』という本を偶然読んだからだ。そこで今回は、筆者なりに恋愛と社会について考えてみたい。

 

<私たちを取り巻く強制的性愛の社会>

「強制的性愛」とは、性的であることを当然視する社会のありようを言う。例えばイメージをもちやすいのは恋の話、いわゆる「恋バナ」をするような場面だろうか。もちろん、恋バナ自体を悪く言うつもりはない。実際、それで距離が縮まったという体験を持つ人も多いだろう。ただ、恋バナが好きな人ばかりではないし、共有するという形でのコミュニケーションを強要してしまうような環境は、強制的性愛の社会であると言える。

こうした社会では、性的でない対象は人間性すら否定される。例えば子供っぽいだとか壊れているだとか。本来非モテも自虐ネタとして登場したはずが、いつしか身体的な欠陥や経済的状態の低さから恋人ができないという理屈で、今では身体的欠陥や低い経済状態にあるものを非モテと呼ぶ。つまり個人の属性へと還元する現象が起きた。これも強制的性愛が導き出した帰結ということができるだろう。

<男性も「らしさ」に困っている>

あまり印象で話し過ぎるのも良くないと思うが、「ジェンダー」の話では女性がセットで語られ、「恋愛系」の話では男性が取り上げられることが多いような気がする。今回参考にした本でも、「非モテ」は男性に限った話ではないと最初に断っているが、主な研究対象を男性に絞っているし、ネットスラングのチー牛(「チーズ牛丼注文してそう」という偏見から)、弱者男性、蛙化など、こうした言葉にはどうしても男性のイメージが付きまとう。

ジェンダーと聞くと、「女性政治家が少ない」だとか「女性管理職が少ない」だとか、何かと制度的な問題としてとらえられ、硬派なアプローチが試みられる印象が強い。対照的に恋愛の話は個人の話と割り切られ、身近な問題にもかかわらず社会の問題として取り上げられづらい。

日本男性相談フォーラム代表理事福島充人さんへの日経新聞のインタビュー記事によると、「年間150件~200件ほど電話がかかってくる。近年は減ったが、それでも無言は15%を占める」とある。誰にも相談できない、強がってしまう、知らず知らずのうちに沁みついた「男らしさ」は、らしさに悩む男性をより孤立させる。

 

恋愛することで一人前になれたような気がする。自分も恋バナのネタを持ち共有できることでコミュニケーションに参加できた気がする。こうしたフィクションとしての「普通」は、落ち着いて考えれば視野が狭いことでしかないことは誰にでもわかるだろう。それでも、ここにしがみつかなければ生きていけないような幻想を強制的性愛の社会は生み出している。

失恋や失敗から立ち直るように、何かに打ち込むことで忘れられたり解放されたりできるならそれはそれで良いだろう。ただ、そうした対症療法ではなく、恋愛に追われる社会構造そのものを解体することこそが、私たちを生きやすい社会へと導くはずだ。

 

参考記事:

2023年10月26日付 日経電子版 「「男らしさ」にとらわれて… しんどさにどう向き合うか」「男らしさ」にとらわれて… しんどさにどう向き合うか – 日本経済新聞 (nikkei.com)

参考資料:

西井開 (2021)『「非モテ」からはじめる男性学』集英社。