前回のあらたにすでもお伝えしたように、最近専ら「主権者教育」「民主主義教育」を学校で実践するにはどうすれば良いか、ばかりを考えている筆者。今の日本の学校の大半は民主的ではなく、子どもの「自分は社会を変えられる」という感覚を奪っているのではないか。社会科で政治を教えるよりももっと大事なのは、「自分たちのことを自分たちで決めた」「自分の意見が大切にされた」という経験ではないか。それが、無数にある社会問題を解決したり、無力感を抱えて生きる人を減らしたりする糸口になるのではないか。そう考えています。
取り組む際に壁になるのは、「民主主義教育は社会科がやる」という思い込み。本来ならば、学級経営をする担任をはじめ、子どもと関わるすべての教員に「民主的な感覚」「子どもと対等な姿勢」を持っていてほしいものですが、社会科以外の教員となるとよりその意義を実感しづらいように考えていました。学生時代にそれを知る機会がなく、現場でも他の業務に追われているのだから……そう思っていた矢先、思いがけないところで「民主的」という言葉を耳にしました。
教職大学院の体育科で学ぶ友人と久しぶりに会った時のこと。彼女は「体育が苦手な子も一緒にスポーツを楽しむために、ヨーロッパの民主的な体育の授業も勉強してみたんだ」と。まさか、対極にいると思っていた体育畑の人に通ずる部分があるとは。勝手に「壁」というイメージを作り出していたのは私の方でした。
運動が得意な子も苦手な子も共に運動を楽しむために、カギとなるのは「アダプテーション(adaptation)」。ゲームの難易度をそれぞれのプレーヤーにとって最適に調整することを意味します。例えばバレーボールなら「ワンバウンド後でもセーフ」など、苦手に応じたハンデを設定する。体力差、能力差があっても対等に体を動かすことを楽しむことが目的で、「運動=楽しい」というイメージを抱く子どもを増やすのではと期待されています。そしてそれは、生涯健康でいる人を増やすことにつながります。
懸念するのは、運動が得意で発言力のある子が「あなたのレベルだったらこのハンデが必要」とトップダウンで指示してしまうこと。「私はできないんだ」とレッテルを貼られたと感じ、自己肯定感を下げ、運動への苦手意識がより高まる恐れがあります。ここで登場するのが、「民主的な意思決定」です。「みんなで楽しむためにどうすれば良いのか」をそこにいる全員が主体となって考えるのです。前提条件として「いろんな人がいて当たり前」「そこに価値の優劣はない」という認識を持った上で、ゲームをやりながら、何が適切かを子どもからの発信をもとに考えて調整していく。公平さは本当に欠けていないか?もう少しレベルを上げても楽しめそうか?苦手な子もそうでない子も、共に考えプレイする楽しさを、授業で感じられるようにするのです。教員は、様々なハンデの引き出しを持ち、必要に応じて提案していく必要があります。
これを聞いて、「体育は『知・徳・体』の『体』、つまり身体づくりの部分だけを担っている」という先入観は崩れました。体育の授業こそ、体格差、能力差など多様性が顕著に現れる場です。そういった場で「全員が一緒に楽しむための方法」を考えることは、民主的に物事を決める練習として絶好のチャンスとなります。複数の子どもが、互いのちがいは当たり前だと認め、その上で、共に生きるためにどうすれば良いのか、互いの意見を聞きながら合意形成を図る。体育の授業でも、いや体育の授業だからこそ、「自分たちのことを自分たちで決めた」「自分が大事にされた」と感じられる可能性を秘めている。そう感じました。
学校で、民主的な意思決定を、「多様な人と共に生きるためのすべ」を学べるはずの場はまだまだたくさんありそうです。視野を広く保ち、多様なフィールドの人との対話を重ね、学校の可能性を前向きに探っていきたいものです。