今回は、23年というまだ短い人生しか生きていない私が、僭越ながら、今抱いている大人への不満を書きとめようと思います。「自分は絶対にこうはならないぞ」という自戒を込めて。
■こんな大人にはなりたくない
・相手がどう思っているのかを気に留めず、自慢話、持論をとくとくと話し続ける大人
・「今の若い人ってこうでしょ」「若手だから意見持てないでしょ」と決めつけ、はなから意見を聞くつもりのない大人
・反論=人格否定と捉え、むっとして受け入れず、論点をずらしてとにかく言い返す大人
・質問に正面から答えず、わからないことをわからないと言わない大人
・理屈が通っていないのに難しい言葉を並べたて、個人の訴えに対し「大人になりなさい」と諭すふりをして丸め込もうとする大人
※もちろん、当てはまらない素敵な大人もたくさんいる
こういう人に共通するのは、「年下世代を完全に下に見ているな」と感じさせること。純粋に、悲しいし、悔しい。せっかく複数の人がいて、いろんな視点を取り入れられる可能性があるのに。なぜ、きちんと説明できないのに自分が正しいと言えるのか。なぜ、堂々と問題をはぐらかすのか。「若者は論点をずらされても気づかないだろう」「自分の話は全て若者のためになるだろう」とでも思っているのか。
私の考えに真正面から反論する人がいないままでは、いつまで経っても私は「自分の考えはやっぱり正しい」と思い続けてしまいます。いくら対話をしようとも暖簾に腕押し状態の人へは、自分の思いを伝える労力すらもったいないと、無気力になることもしばしば。
意見を聞いてくれる大人からも「そういうのは上の立場になってから言いな」となだめられることがあります。そしてその常識がまかり通るところでは、「上司に気に入られ、年齢が上がれば出世」がセット。そういった職場は敬遠してしまいます。全世代の声やアイデアを最大限に活かし、もっと早くに成果を上げているところだってたくさんあるのだから。
■全て今の「大人」の責任か
では、先ほど挙げた「大人」が全て悪いのか。そういうわけではないと思います。先ほど挙げた常識が根を張ったコミュニティで権力を握る人は、「理不尽に耐える力も必要」と発破をかけられ、強烈な縦社会を生き抜いてきています。現状を打破しようとする時、一番大変な思いをするのは彼らかもしれません。そうさせた環境的要因にも目を向けていきたい。その世界で戦ってきた彼らへのリスペクトは忘れたくありません。
日本人は議論が下手と言われて久しいですが、議論のスキルを、社会人になる前に培っていないことにも大きな要因があると思います。
反論は決して人格否定ではないこと。発する側も、受け取る側もその意識が必要であること。「これってこういうことですか」「ということはあちらにもこれが当てはまりますか」と部下から質問されたときに真正面から答えることで、ベテランの持つ暗黙知が形式知になりうること。間違いや不合理性に気づく可能性があること。それによって、より良いスキルが継承されていくこと。これらの意義を理解していれば、あんな「大人」にはならないはずです。
■私ができること
教育界を志している筆者は、もう「大人」側でもあります。相手が子どもであろうと、大人の役割は果たしつつ、彼らの声に耳を傾け続けたいと思います。そして同じように、自分の上司に対しても「古い価値観を持つ人」という固定観念を持たず、真正面からの対話を試みようと思います。
今の日本、教育現場は「古い価値観が蔓延っている」というイメージを持たれがちです。それによって、若者から敬遠されるのも惜しい。本来、子どもたちの巣立っていく社会や新しい価値観にアンテナを張り、どんな人を育てるべきかを考え続けられる仕事であるはずなのに。
「どうせあの人はこうするだろう」とか「どうせこう思ってるんでしょう」と本音を見透かされ、簡単に攻略法を握られてしまうような大人ではなく、「どう考えるかな」「意見を聞いてみたいな」と思われる大人になりたい。世の中のできごとにアンテナを張って、思考をやめない大人になりたい。謙虚さ、対話の大切さを、いつまでも強く心に抱いておきたいものです。