先生は怒鳴って当たり前?剥き出しの感情がもたらすのは

“「怒りとの向き合い方」

社会への怒りが課題解決の糸口になることもあれば、怒りに任せた言動が他者を傷つけることも。身近な人に怒りをぶつけたり、逆に怒るべき時に怒れなかったりして、後悔したことはありませんか。「正しい怒り」とは何でしょう。“

朝日新聞の「声」欄が、興味深いテーマを取り扱っていました。「怒りに任せた言動」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、学校の先生です。私はどんな立場の人であろうと、剥き出しの感情を、相手にどう伝わるのか考慮せずそのまま伝えることは、極力避けるべきだと考えています。

 

■「剥き出しの感情」のメリット・デメリット

「剥き出しの感情を相手にどう伝わるのか考慮せずそのまま伝える」ならば、自分の感情をダイレクトに伝えられることでしょう。恐怖心を持たせれば、自分の要望が通りやすくなり、瞬発力にも優れます。剥き出しの感情を出すことを恐れすぎて、その場で指摘すべきことを言いそびれてしまうこともあるでしょう。例えば学校にいる子どもは、大人より危険に鈍感な部分がありますから、彼らを守るためにはそういった瞬発力が必要な場面もあると思います。

マイナス面は、怒りを向けられた相手が、自分にどこまでの非があるのか、どこまでが相手の要望なのか、見えなくなってしまう可能性があることだと思います。例えば、学校の先生が怒鳴るとき、私はまず「とにかくこれをしないでおこう」と思いました。大きな音や声を聞くのは不快だし、恐怖感があるからです。それと同時に、「これで怒るのなら、あれもやってはいけないのかもしれない」とも思います。次の行動は、その先生の顔色を伺いながらとなるでしょう。怒鳴らずとも、「○年生なんだからそれくらいわかるようになりなさい」「考えて動きなさい」と抽象的な言葉とともに不機嫌な表情を浮かべる先生も、同じ効果を生みます。

自分の成績をつける先生、人事評価をする上司など、上下関係のある現場では特に、この恐怖感を感じやすいものです。この問題点は、非民主的、権威主義的になってしまうことだと思います。反射的に自分の行動を止めるので、「どうしてそれをしてはいけないのか」を考えることもやめてしまいがちです。それでは、もし間違っていたときや自分の価値観に反していた時でも、異論を訴えづらくなります。教師も上司も、全ての正解を知っているわけではありません。同じ空間にいる全員にとってより良い環境を作り上げることが難しくなるでしょう。

 

■怒りをどう扱うか

怒りという感情の根本には、「〇〇されたら不快になる/悲しい」「〇〇して欲しい」という気持ちがあると思います。イラッとしてしまった時、怒りの感情をそのままぶつけてしまう前に、どうして欲しいのか、それはなぜなのか、まずは冷静に分析し、それを対話で伝えるべきです。先ほど述べた緊急の場合は、その時間も惜しいので手段を選ばず伝えることも必要ですが、後で自分の気持ちをきちんと言葉で相手に伝えるフォローが必要です。感情をストレートに表現しても良いのは、ある程度感情をぶつけても、相手の次の行動を萎縮させないくらいの対話的な関係が構築できている場合のみだと思います。できるならばその方が、円滑で素早いコミュニケーションが図れ、ストレスの溜めすぎも防げることでしょう。

逆に、他人の剥き出しの怒りを受けてしまった人は、その人の要望が何なのか理解を試み、後に状況が落ち着いた時に確認してみるのも手かもしれません。これから自身が萎縮せずに済みますし、相手にとっても自分が本当に伝えたかったことに気づくきっかけになるでしょう。

私は、「教育には恐怖が必要」という考え方には反対です。教師と生徒は、教える者と教えられる者、また、子どもの安全を守るものと守られるものという関係ではありますが、お互いの権利を尊重し合うという部分では、対等な関係であるべきだと考えます。想像力、理解力などが大人に及ばない子ども相手では、どうしても手っ取り早い「負の感情を剥き出しにする」手段を使ってしまいたくなりますが、ぐっと堪え、根気よく対話を試みるべきだと思います。子どもが、自分自身の権利を認識していくために、伸び伸び育つために、少しずつ教育現場の「当たり前」が見直されていけば良いなと思います。

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