29日付の朝日新聞に「腎不全『透析しない』選択」という衝撃的な記事がありました。高齢の腎不全患者が人工透析を中断したり、最初から行わない選択をしたりすることを決める手順やケアについて、日本医療研究開発機構(AMED)がガイドを作成したというのです。2018年に透析中止による患者死亡の事例が報道され、倫理問題として議論が起きたことが記憶に残っている筆者にとって、驚くべきニュースでした。
人工透析では、腎機能が正常の10%~15%以下と著しく低下した場合に、体内の老廃物などの毒素を人工的に排泄します。腎機能の一部を肩代わりすることで命を繋ぐ方法です。日本は「長生きの国」という印象が強いのですが、20年末時点の透析患者数は約34万人で、国民360人に1人が透析患者ということになります。世界で第3位の透析大国です。日本では腎移植の例が少なく、透析に頼る患者が多いようです。
人工透析が必要となる病気は、糖尿病性腎炎や、腎臓の動脈硬化により腎機能が低下する腎硬化症などが挙げられ、大半を高齢の患者が占めています。人工透析を開始すると、週に2回から3回は病院に通い、それぞれ4時間以上の治療を受けます。さらに治療による痛みや、一生続けなければならないという精神的負担を伴う場合もあるようです。
ある医師から聞いた「助けられる命を何もしないでみているというほど悔しいことはない」「目の前の患者を助けることが医者の仕事だ」という言葉からは、医療行為を中断することがどれだけ厳しい決断なのかがよくわかります。人工透析を中止すると数日から2週間ほどで亡くなるといいます。こうした状況下で患者や医者はどのように判断すべきでしょうか。
記事の中で、今回のガイドづくりでは、「透析をせずにケアする選択」の議論となり、自分らしく生きるという選択肢を積極的に提示できた、とありました。延命治療や尊厳死と同じく、終末期に関する議論ともいえるでしょう。倫理や法の問題が絡むと同時に、患者の意向を重視する姿勢も見られます。
この議論の中で焦点があてられるのは「インフォームド・コンセント」。患者が医師からよく説明を受け、ある程度の危険性を理解した上で自主的に判断し、受けたい医療を選択する。これにより、医師が合法的にその医療を実施できるようになり、患者と医師との人間関係を信頼あるものにする法理とされています(「医療倫理学」参照)。つまり、患者の同意を得ることで医師を法的に守るという状態になるのです。さらに、患者が一度同意した後でも、患者の考えが変わった場合には、同意を撤回し、変更を求める権利が認められています。18年の透析中断の問題は、透析中止に関して必要なインフォームド・コンセントのステップを踏めておらず、重要な要件が欠けていたと考えることもできるでしょう。
「死」に関する議論は幅広く起きています。その中でよく注目されるのは「患者の意思」や「患者の権利」です。しかし、それに伴い医療者側にふりかかる難題について私たちが考えることはほぼありません。人工透析の患者の多くは高齢なため、本人の意思決定能力の問題があります。さらに患者は治療を継続するかどうかという非常に「揺れる」判断を迫られます。いつ意思が変わってもおかしくない状況です。18年の事例では患者の意思が揺れた際に、医療者がどのように対応したのかという部分が争点となりました。誰の意思なのか、意向が変わった際の対応はどのようにすればよいのか、医師側も慎重に判断しなければなりません。もちろん、医療者が直面するのは、患者が亡くなるまでの間で、亡くなった後で悩んだり後悔したりするのは患者の遺族です。また、医療行為を受けるのは患者自身で、結果による影響を受けるのも患者自身です。その点で、患者や家族の意思が重視される理由はよくわかりますが、医師も納得し、正しい過程を踏んで治療ができる状況を作ることが、選択肢のある医療を持続的に受けることのできる環境構築につながるのではないでしょうか。
人工透析のガイドができたことが、患者と医師の関係性を見直すきっかけになればと願います。
参考記事:
29日付 朝日新聞朝刊(福岡14版)1面「腎不全「透析しない」選択」
29日付 朝日新聞朝刊(福岡14版)総合3面「透析せずケア 意義と課題」
参考資料:
丸山マサ美(2009)『医療倫理学』中央法規出版
森岡恭彦(2015)『医学の近代史 苦闘の道のりをたどる』NHK出版