悲しみと怒りが筆者の心で渦巻いています。人の命を奪い、街を恐怖に陥れ、そして何よりも暴力で社会を変えようとする行為に憤りを感じずにはいれません。微力ではありますが、このような事件が二度と起きることの無いよう、今日はこの痛ましい事件を受け、テロに強い社会を考えていきたいと思います。
これがあらたにすの書き手としてのパリへの応援のかたちです。。
13日夜(日本時間14日早朝)、フランスのパリで同時多発テロが発生し、サッカー場の爆破やコンサートホールやカフェでの銃撃などにより、少なくとも128名もの死者を出しました。オランド大統領は14日の演説で、非常事態を宣言し、国境管理の強化措置や一部公共施設の閉鎖等が行われています。また、イスラム国による犯行だと断定し、イスラム国側も犯行声明を発表しました。パリでは、30日から、国連気候変動会議(COP21)が開かれ、14日はウイーンでシリア和平会議が行われるなど、国際会議が多数開催され、国際社会の注目を狙った犯行の可能性が高いとみられています。イスラム国は犯行声明の中で、「嵐の始まりに過ぎない」と警告しており、国際会議が開催される地区では今以上の警備体制が予想されます。また、ボルドーで開催されているフィギュアスケートのグランプリシリーズ第4戦フランス杯がこの影響で中止となり、スポーツなどにも影響や混乱を及ぼしています。
テロ行為そのものは絶対に許してはなりません。そんな当たり前のことを繰り返しても仕方がないでしょう。今回は少し別の観点から書き進めていきます。今日を書きたいことは、テロを防ぐことが日常の暮らし、言い換えれば自由な社会の妨げになることも、あってはならないというkとです。イスラム国を始めとするイスラム過激派のようなテロリストが目指すのは抑圧的な社会、言い換えれば自由とは真逆の社会を作ろうとしているということになるでしょう。信仰を同じくしているにも関わらず、大半のイスラム教徒からもそっぽを向かれるほどです。長い歴史をかけて勝ち取り、自由が当たり前になっている人々がそれを手放すことは通常あり得ません。だからテロリストは人々が自発的に自由を手放したくなるような手法を用いるのではないでしょうか。テロが発生すれば、どうしても社会は監視や警戒を重視するようになり、程度の違いはあれど、制限の強い社会になることが予想されます。テロの成功の可否に関わらず、抑圧的な社会化が進むということはテロリストの思う壺、ということになってしまうでしょう。テロを未然に防ぐことと社会の仕組みを作っていくことは別個のものであるはず、安易にテロを防ぐためと称し、人々の自由な暮らしを書き換えるようなことはあってはならないのです。ましてやフランスという国は人々が自由を勝ち取った歴史の代名詞のような国です。その国が真逆の方向に傾く、テロリストにとっては願ってもない理想形でしょう。
テロを防げなかったことは非常に残念です。しかし、自由はテロの原因ではないと考えています。自由は責任を伴ったものです。人生における様々な場面を自己の判断で切り開いていくことが出来る一方、その責任も自分が追うのです。責任が取れるから自由なのです。テロの自由なんてあり得ません。「自由=なんでもあり」というのは大きな誤解であり、その誤解が自由はテロリストを野放にし、自由がテロの原因だという飛躍した論理を生み出した結果、このような痛ましい事件が発生する度に自由が批判に晒されます。記憶に新しいものでは今年1月に発生した同じくパリのシャルリー・エフド襲撃事件でも、事件後に一部、表現の自由への批判的な主張が見られました。しかし、前述したようにこれでは、結果としてはテロリストの考えていた結果を被害者側がみすみす提供するようなものです。被害を受けた側がなすべきは、テロを未然に防ぐことはもちろんのこと、テロが発生した際には、犯人や組織を徹底的に断罪すると同時に、テロに屈せずに今以上に自由な社会を目指すことではないでしょうか。そんな「強い」社会では、テロが発生するどころかテロリストが近寄ることすらできなくなるはずです。
2020年に東京オリンピックを控え、世界中からの注目が今現在以上に集まることは目に見えています。その時、テロそのものへの対策だけに留めず、テロを防ぎつつ、自由な社会、自由な暮らしをどれだけ守ることができるのかということも求められることでしょう。
本当の意味でテロに強い都市とは、「意志」を持った社会です。
参考記事:15日付朝刊各紙パリ同時多発テロ関連面
14日付夕刊各紙パリ同時多発テロ関連面