先週金曜日の有明海。例年なら海苔を養殖するための網を張る作業が行われている時期だが、今年は気温が高くてまだ取り掛かれない。
港では、次の週の海苔の種付け解禁に向けて、着々と準備が進められていた。「オーライ、オーライ」という威勢のいい掛け声。高齢のベテランがやっているのかと思ったら、意外にもメインは20代から30代の男性。地元の人が言うには、海苔の種付けにはかなり多くの人手が必要で、この時期だけ一時的に雇われている人が多いらしい。
午後4時になると、作業が終わったのか一斉に人がいなくなり、港は静けさを取り戻した。ムツゴロウが砂の中から顔を出したりひっこめたりする時のピチピチという音だけが絶え間なく聞こえる。すると、釣竿を載せた一台の軽トラがやってきた。漁業関係の人かもしれない。海苔の養殖について取材しようと思っていた筆者は急いでそちらに向かった。
乗っていたのは80代の男性一人。夜の酒のつまみを釣りに来たという。男性は漁業関係者ではないが、若いころは親戚の海苔の収穫を手伝っていて、養殖のノウハウを私に丁寧に教えてくれた。
話は最近の生活に。男性は、川柳集の出版から年金者連盟の運営、地元への大河ドラマの誘致まで日々忙しく活動しているという。この日はつかの間の休日だったみたい。「そんなに多忙な生活で、幸せですか?」と聞くと、思わぬ言葉が返ってきた。「幸せと言えば幸せだわな。ただ、不幸は親父が帰ってこんとだけ。親の顔ば見て死にたか」。男性は生後間もなく、父親を戦争で亡くしていた。
こんな高齢の人が親の話をするとは想像しなかった。80年以上父親を知らない状態で生きてきたわけだが、それでも慣れることはないのか。こちらは子どもの話になるが、確かに、子どもの権利条約の第7条には「出自を知る権利」が明記されている。
男性は言った。「(終戦から)75年経って有明海にオスプレイを持ってくるなんて、間違っている」。父を奪われた先の大戦と重ね合わせているのは明らかだった。男性は、オスプレイが佐賀空港へ配備されたときの環境への影響を指摘した上で、「一番の問題は、そういうのが身近になること。軍事的な施設ができたら、子どもたちはそれに感化される」。
19日に北朝鮮が潜水艦発射弾道ミサイルを発射した。また、21日には中国とロシアの海軍艦隊計10隻が東京都の須美寿島と鳥島の間を通過し、航空自衛隊は戦闘機を緊急発進させた。周辺国の動きは活発だ。
これらをどれほど日本の国防における脅威とみなすかは人それぞれだろう。ただ、その対策を考える際にはかなりの慎重さが求められると思う。それは、取材したおじいさんが言ってたように、仮に軍事がより身近になれば、人々の戦争への抵抗感が減ることが十分予想されるからだ。
歴史的局面という言葉をよく聞くが、それはどういう出来事があった場合のことなのだろうか。人の心理だけに着目したとき、私は、人の考え方のベースが変わるような事態が起きた時だと思う。それまで当たり前ではないと思っていたことが当たり前になるというように。
取材したおじいさんは日本が自衛戦争のための軍事力を持つことに反対していた。私はそうは思わない。ただ、軍事を増強するにあたって、今の状況だけではなく、それが後世に与える影響も十分考えなければならないと思う。マスコミには、そういった長期的な視点をもった報道が求められるのではないだろうか。
「エサがぬるうなってしまうけん」。おじいさんは釣りに向かっていった。4キロ先の佐賀空港からは羽田行の飛行機が静かに飛び立った。この穏やかな日本がずっと続いてほしいと切に願う。
参考記事:
23日付 朝日新聞朝刊(福岡13版)12面(オピニオン)「社説 再起動へ政治が動け」
21日 読売新聞オンライン「有明海で養殖ノリの種付け始まる」
22日 朝日新聞デジタル「潜水艦発射、韓国が確認 北朝鮮SLBM 『5年前も発射、改造』」
23日 読売新聞オンライン「中露の艦艇10隻、大隅海峡を初めて同時に通過…中国駆逐艦が減り発着で空自が緊急発進」
2021年7月5日 朝日新聞デジタル「(いちからわかる!)オスプレイの佐賀配備、難航しているの?」
2021年9月27日 朝日新聞デジタル「『佐賀空港は観光でいかせ』 オスプレイ集会で佐賀大教授」
参考資料:
unicef 「子どもの権利条約」全文(政府訳)