「ろう」を考える

開催の賛否は分かれているものの、明日24日から東京パラリンピックがいよいよ開かれます。日本パラリンピック委員会によると、大会の意義とは、多様性を認め、個性や能力を発揮し活躍する公正な機会を与え、共生社会へのヒントを与えることにあるとされています。

「グローバル化」や「withコロナ」。昨今では、私たちは様々なものとの共生が求められています。

皆さんは、小学校や中学校で地元のボランティアの方と一緒に、「障がい」について学んだことはありますか?筆者の通っていた小学校では、視覚障がい者の支援団体の方に来ていただき、簡単な点字を学んだり、実際に目隠しをして学校を歩いたりする体験をする機会がありました。

確かに、子どもたちにこのような機会を与えることは良いことだと思います。しかし、これだけでは十分と言えないのではないでしょうか。「健常者」が「障がい者」とコミュニケーションを取ろうとするのならば、手話や点字など、時に特別なスキルが必要になります。

例えば、筆者が耳の聞こえない方と話す際には、手話でやりとりをしなければならないでしょう。ですが、筆者にはそれができません。一方で、グローバル化が叫ばれる今日では、小学校から大学、そして社会に出た後でも、人々は海外の人と対話しようと、英語の学習に力を入れたり、英会話教室に通ったりなど、積極的に自身のスキルアップを図っています。

国際的な条約でも、国内の障害者基本法でも、手話は日本語や英語と同様に「言語」であるとされ、全日本ろうあ連盟も日本語などの「音声言語」と「手話言語」が対等な言語であるという認識を普及させる活動をしています。普段から手話を使わない人では、手話を医学的なコミュニケーションツールと捉えている人は多いかもしれませんが、「ろう」というのは日本語に比べ人数的な意味で言語的マイノリティであるだけで、立派に文化的・言語的側面を有しているのです。

また、聴覚障がい者の教育上の問題として、「9歳の壁」問題があります。これは、高校卒業時程度の学力が、9歳ほどの段階で停滞してしまっている現象を指します。9歳ほどになると学校の授業の題材がそれまでの身近なものから、実際には体験したことのないような事がらをもとにしたものが多くなり、抽象的な思考、言語能力が必要になるためです。そして、十分な情報の獲得が困難なために、進学それ自体や、進学後の学習に支障が生ずることがあると言われています。

手話を一言語として見ればこそ、このような問題は「内在的」なものではなく、まだまだ対等とは言えない、手話の社会的立場がもたらした「外在的」なものであると思います。

パラリンピックが持つ意義のように、多様性を大切にするのならば、「障がい者」がスキルを習得するだけではなく、「健常者」側も同じものを身に付けようとすることが大切ですし、それなしに共生社会を語ることはできません。言語であるということは、手話は「身に付けたい」という思いがあれば誰にでも習得できるということです。

オリンピック期間中に増えに増えてしまった感染者数を前に、パラリンピック開催の是非も分かれていましたが、明日は開会式。外出をはばかられ、多くの人にとって家にいる時間が多い夏です。筆者は漫然と観戦するだけではなく、その意義を再確認しながら選手に声援を送りたいと思っています。

 

参考記事:

23日付読売新聞朝刊(東京14版)35面「1964パラ 人生変えた」

 

参考文献:

独立行政法人国立特別支援教育総合研究所、「聴覚障害教育Q&A50~聴覚に障害のある子どもの指導・支援~」、2016年

一般財団法人全日本ろうあ連盟、「手話言語法の制定へ!~手話言語でGo!~」、2020年

日本パラリンピック委員会方式HP、「パラリンピックとは」

坂本徳仁(立命館大学生存学研究所)、「聴覚障害者の進学と就労—現状と課題」、2011年