遅ればせながら宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』を読んだ。三島由紀夫賞・芥川賞受賞、加えて2021年本屋大賞ノミネートという偉業を成し遂げた作品。文庫化を待てるはずはない。そして何より主人公のあかりがアイドルオタクであることに惹かれた。筆者もあかりと同様、アイドルを「推す」ことを経験していたからだ。
~語録~
推し:応援する対象のこと
現場:握手会、写真撮影会やCD発売会などメンバーに直接会うことができるイベントのこと。長距離移動をしてイベントに参加することを遠征という
認知:推しに顔や名前を覚えてもらうこと
高校3年生から大学1年生まで、筆者はあるアイドルグループを応援していた。きっかけは高校の友人の薦めだった。懸命に歌い踊るメンバーが、大学受験期の励みになった。受験を終え、ようやく推しに会うことができた日は胸が躍った。メンバーの脱退や活動休止が原因で落ち込むこともある。それでもファンは、推すことを止めない。現場でお話したファンの中にはメンバーに認知してもらおうと、遠征する人も少なくなかった。応援の形は人それぞれで、筆者は学生ということもありあまりお金を使わなかった。結局認知されることなくイベントから足が遠のいてしまった。
『推し、燃ゆ』を読んで、あかりと筆者にとっての「推し」は全く異なる定義のように感じた。作中では繰り返し「体の重さ」という言葉が用いられる。女性特有の体の不調も、あかり自身が家族や社会の中で上手く生きられないことも、全て体が重いと表現される。しかし推しという「背骨」によって生かされ、動かされている。推しは重い肉体を貫く背骨なのだ。それに対し筆者は、生かされているというよりも楽しませてもらうという感覚だった。体ではなく、心が動かされていた。
「○○がいるから働ける」、「推しがいないと生きていけない」。現場で何度も耳にした言葉だ。推しへの愛を表現するための誇張とは言い切れない。きっとあかりのように体を動かされているファンもいたに違いない。
コロナで人に会えない今こそ、誰にも頼れない人こそ「背骨」が必要だ。背骨が人である必要はない。これがあるから生きられると思えるものを。『推し、燃ゆ』はそう訴えかけている気がする。
参考紙面:
5日付朝日新聞朝刊(13版)24面「芥川賞・直木賞受賞者エッセー 地獄と天国のシャワー」
8日付朝日新聞朝刊(13版s)17面「書く 推し」