15年前のあの日、ある1人の少女がその短い生涯を終えた。翌月から水色のピカピカのランドセルを背負い、小学校に通うはずだった。
少女の名は、佐藤愛梨さん。宮城県石巻市の日和幼稚園に通っていた愛梨さんは、乗るべきではない送迎バスに乗せられた。そして、津波とその後の火災に巻き込まれ、4人の園児と共に犠牲となった。日和幼稚園は高台にあるため、その場に留まっていれば、命を落とすことはなかった。しかし、沿岸部に住む園児たちを送迎するべく出発したバスは、津波が押し寄せる平地へと向かってしまったのだ。
2026年3月12日、私は愛梨さんの母・美香さんの案内のもと、門脇地区を歩いた。実際に現地に立つと、愛梨さんたちが乗っていたバスが見つかった地点と幼稚園の距離は想像以上に近い。高台の園舎は、すぐそこに見える。バスの運転手や同乗していた職員は園児を連れてバスを降り、幼稚園に引き返す判断をできなかったのだろうか。疑念が募る。
愛梨さんは、発災から3日後の14日午前、真っ黒焦げの状態で見つかった。まわりの子よりも背が高かったという愛梨さんだが、赤ちゃんくらいの大きさになっていた。美香さんは我が子を抱きしめることすら叶わなかった。力を込めれば、その小さな身体が壊れてしまうからだ。
近隣住民の話によると、愛梨さんたちを乗せていたバスが見つかった方面からは、夜中0時頃まで「助けて」と懸命に叫ぶ声が聞こえ続けていたという。どんなに心細く、苦しかっただろうか。いくら助けを求めても、1本の手も差し伸べられることはなかった。その絶望は筆舌に尽くし難い。
なぜ、高台にあった幼稚園からバスは出発してしまったのか。その背景を探ると、今もなお教育現場が抱える構造的な欠陥が浮かび上がる。その最たるものが、幼稚園と保育園でそれぞれ義務付けられている防災訓練の回数の差だ。
保育所・保育園では児童福祉施設の設備及び運営に関する基準に基づき、「毎月1回以上」の避難・消火訓練が必須となっている。対して幼稚園は、消防法施行規則第3条第10項に基づき、「年2回以上」の実施義務に留まるのが実状だ。
この頻度の差は、現場の判断を大きく左右した。震災当時、近隣の門脇保育所では、日頃の訓練の成果もあり職員が迅速に避難を決断。園児らは約2キロ先の石巻保育所までの避難を無事に完了させた。もし日和幼稚園でも毎月訓練が行われ、職員の防災意識が高まっていれば、園児をバスに乗せて沿岸部へ向かわせるという誤った決断は回避できたのではないだろうか。
避難の在り方そのものも問われている。市の「保育所のしおり」には、震度5以上の地震と津波の発生時には保護者が子供を迎えに行くと定められていた。そのマニュアルに従った結果、子供を受け取ったのちに自宅に戻るなどした親子が津波にのまれてしまう悲劇が起きた。
一方で、保護者の迎えを待たずに、教員の判断で避難を開始した子供たちは石巻保育所まで無事に逃げ延びている。マニュアルは重要だが、絶対ではない。ときにそれを超える現場の判断力が不可欠であり、そのためには「形式」ではない、実戦的な備えが求められる。
筆者は、大震災発生直後の2011年4月に小学校に入り、これまで避難訓練を受けてきた。しかし、歳月の経過とともに、教員・生徒双方から、毎回の避難訓練に対する懸命さは失われていったように感じる。
教育現場は、子どもたちの命を預かる場所だ。東日本大震災の発災から15年。幼稚園の避難訓練の回数はこのままで良いのか。避難訓練が形ばかりに化してはいないか。大人の判断ミスにより子供の命が失われることは、2度とあってはならない。
参考記事:
・2011年3月15日付 朝日新聞 「廃虚、家族捜して 宮城・石巻、岩手・山田 東日本大震災」
・2011年10月4日付 河北新報「焦点/保育所、津波襲来で明暗/犠牲少なく、毎月避難訓練で備え」

