スポーツは誰のものか

ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、日本代表がベネズエラに5―8で敗れました。筆者はネットフリックス(ネトフリ)に登録していたため試合を観戦することができましたが、日本国内ではネトフリの独占配信だったため、地上波テレビで打撃戦を見ることはできませんでした。

 

2023年の前回大会では、視聴率が40%を超える日本戦が相次ぎました。スポーツには勝敗そのもの以上に、人々を同じ時間と感情で結びつける力があると思います。だからこそ、WBCのような国際大会は、単なる娯楽ではなく、社会全体で分かち合う「公共性」を持った出来事だと感じます。

 

しかし近年は、人気スポーツの放映権を配信事業者が独占する動きが目立っています。今回のWBCもその一例であり、企業側には人気コンテンツを独占することで新規契約者を増やし、顧客を囲い込む狙いがあるのでしょう。ビジネスとして考えれば合理的であり、時代の流れでもあると思います。筆者自身、配信サービスの便利さを否定するつもりはありません。スマートフォンやタブレットでどこでも視聴でき、見逃し配信もあります。若い世代にとっては、むしろこちらの方が身近かもしれません。

 

ただ、その一方で見落としてはならないのは、「見たくても見られない人」が確実に存在するという現実です。京都府伊根町でのボランティア活動の際に出会った方々の中にも、「地上波でやっていないなら、みんなで盛り上がれない」「選手たちも、もっと多くの人に見てもらえた方がやる気が出るのではないか」と話していた人がいました。少し感情的な表現かもしれませんが、その言葉の背景には、スポーツ観戦が単なる個人の娯楽や消費ではなく、地域や家庭の中で共有される体験であったという実感があるのだと思います。

 

高齢者やインターネットの利用に慣れていない人にとって、サブスクリプション登録は簡単ではありません。月額料金の負担をためらう人もいるでしょう。つまり、放映権の独占は、技術や経済状況によって「見る機会」に格差を生み出してしまいかねません。日本代表の試合のように、国民的関心の高いスポーツイベントが一部の人だけのものになってしまえば、スポーツが本来持っていた「みんなで応援する文化」は少しずつ失われていくのではないでしょうか。

 

朝日新聞によると、英国ではオリンピックなど国民的に重要とされる大会について、生中継の独占契約を制限する法制度があるそうです。そこには、重要なスポーツイベントを単なる商品ではなく、広く国民が共有すべき「文化的資産」として捉える考え方があります。筆者は、この発想に大きな意義を感じました。スポーツは企業の収益源である前に、人々が感動を共有し、社会に一体感を生み出す公共的な存在でもあるはずです。

また、国際大会は、多文化共生を考える上でも重要な意味を持っています。近年は、さまざまなルーツを持つ選手が各国代表として活躍しています。たとえば、韓国代表となった米国出身のトーマス・ヒョンス・エドマンです。彼は母親のルーツがある韓国でプレーし、多くの人々の共感を集めました。こうした姿は、国籍や出自をめぐる固定観念を和らげ、スポーツが多様性を受け入れる場にもなり得ることを示していると思います。だからこそ、国際大会はより多くの人に開かれているべきです。

 

もちろん、時代の変化の中で、スポーツ観戦の形が変わること自体は避けられません。配信サービスの存在を否定するのではなく、地上波や無料配信との併用、あるいは重要な試合だけでも広く開放する仕組みを考えるべきではないでしょうか。スポーツを「誰が契約しているか」で区切るのではなく、「誰もが共有できるか」という視点で考える必要があります。

 

 

朝日新聞デジタル、2026年3月14日「天声人語」

朝日新聞デジタル、2026年3月11日「(Media Times)独占されたWBC、焦るTV局」

朝日新聞デジタル、2026年3月15日、「「国民的関心」にどう応えるのか WBC、韓国・台湾の視聴状況は」