「実名か、匿名か」を考える

加速する「実名原則」への拒絶反応
戦後、日本のメディアが重大事件のたびに掲げてきた「実名報道原則」。かつては事件の解明や、亡くなった方の「生きた証」を社会の記憶に刻むという意義から、当然と受け止められてきました。しかし、SNSの爆発的な普及によって市民の声が可視化されると、その前提は大きく揺らいでいます。被害者のプライバシー保護を最優先すべきという声が急速に支持を集め、メディアが掲げる「正義」と市民の「倫理観」との乖離は、大きなものとなっています。

3つの事件から見る原則
この議論の変遷を辿る上で、重要な3つの事件があります。 第一の転換点は、1997年の神戸連続児童殺傷事件です。加害者が少年法で守られる一方で、被害者の実名や家族のプライバシーが過熱取材(メディアスクラム)によって晒されました。この構図は、報道への根深い不信感の原点となりました。

第二に、2016年の相模原障害者施設殺傷事件が挙げられます。差別や偏見を恐れる遺族の強い意向により、大半の被害者が匿名で報じられました。これは従来の実名原則を根底から揺るがし、社会的な差別から身を守るための「匿名の権利」を浮き彫りにしました。

そして2019年の京都アニメーション放火殺人事件では、実名公表の是非をめぐり、遺族とメディア、そしてSNS上の市民感情が激しく衝突しました。著名なクリエイターたちの死を悼む「生きた証」としての実名と、静かに喪に服したい遺族の想い。その衝突は瞬時に拡散され、メディア批判を加速させる決定的な契機となりました。

実名報道の意義
実名報道の最大の意義は、被害者を単なる「統計上の数字」から、顔の見える、血の通った「ひと」としての存在に引き戻すことにあります。名前が報じられ、その人が歩んできた人生が語られるからこそ、読者は事件を遠い世界の出来事ではなく、自分たちの社会に起きた悲劇として共有できるのではないでしょうか。 しかし一方で、デジタルデータとして残り続ける記録や、メディアスクラムによるリスクを被害者側が一方的に背負わされる現実も考えなければなりません。

メディアの「説明責任」
背景には、メディアを取り巻く環境の構造変化があります。日本新聞協会のデータによれば、1990年に5191万部を誇った新聞の総発行部数は、2025年では2486万部へと激減しました。こうした既存メディアの衰退と反比例するようにSNSが台頭し、相対的に新聞などの「オールドメディア」の影響力が低下している現実があります。

誰もが情報発信者になり得るSNS時代において、新聞社が一方的に決定する「実名報道原則」は、もはや絶対的な原則ではありません。市民の多くは、実名報道そのものを全否定しているわけではなく、むしろ、個人のプライバシーというリスクを冒してまで「なぜ実名が必要なのか」という、メディア側の「説明責任」が果たされていないことに強い不信感を抱いているのではないでしょうか。

信頼を取り戻すために
「実名か匿名か」という問いに、万人に通じる正解はないと思います。しかし、事件を「自分ごと」として捉え直すように促し、再発防止につなげるには「顔の見える報道」が重要であることもまた、否定できない事実です。

メディアが失われた信頼を回復するためには、旧来の慣習に固執するのではなく、記者が自ら、なぜ実名が必要なのかを自らの言葉で丁寧に説明することが求められているのではないでしょうか。メディアと市民の徹底的な議論。その泥臭い対話の積み重ねこそが、国民全体として事件に向き合うための、鍵となるはずです。

参考
日本新聞協会 新聞の発行部数と世帯数の推移
https://www.pressnet.or.jp/data/circulation/circulation01.php