教育機関としての大学

11月もあと半月。日に日に寒さが増し、冬本番は目の前です。そんな11月は、我々2年生にとって来年度からのゼミを選ぶ重要な季節でした。今回は、そんなゼミを選択する中で感じた大学の在り方への疑問を書いていこうと思います。

 

多くの大学と同じように、筆者の所属する学部は、3年生から2年間かけて学ぶゼミナールが開講されています。1人の教員に対する定員は15人とされています。この15人は妥当な数字であると思いますか。

きっと多くの方が普通だと答えられるでしょう。筆者も姉の大学時代の話から15人なら当たり前なのかなと思っていました。なので、特に疑問を抱くこともなくなんとなく自分の興味に合いそうなゼミに目星をつけていました。しかし、夏休みを前にした春学期後半、来年度の開講ゼミが発表され、その数の少なさに衝撃を受けました。

 

筆者の専攻では、全部で10ゼミだけ。それに対し、所属学生は200名以上。定員についてはある程度柔軟に対応するとはいうものの、すでに専攻のゼミには入れない可能性があるわけです。

そのためにあるのが、他専攻のゼミを選択できる制度です。入学時の専攻に加えて、申請すれば他専攻を同時にとることができるもので、それを利用すると所属以外のゼミにも応募することができます。

 

ある専攻では、所属学生数が少ないこともあって、2つのゼミしか開講されません。こうした現状であれば、便利な制度であると言えます。ですが一方で、ある学問領域を学びたいと思って入学してきた学生が、その専攻のゼミに入れない可能性が高まったとも言えます。

 

現在、学部の同期は全部で900名います。確かにすべての開講ゼミを合わせると、900名全員がいずれかのゼミに所属できる計算です。でも、それは最終的な数字上の結果であって、学生の思いは考慮されていないように思えてなりません。

 

この教員のもとで学びたいと思い入学してきたある友人が、そのゼミが来年度は開講しないと知ったとき、「なんのためにここに来たのか」と話していたことがありました。大学には、「サバティカル(研究休暇)」と呼ばれる、一定期間大学の教育・運営業務から離れ、研究に専念できるという制度があります。大学教員は、「研究者」であるためそうなってしまうのは仕方ないにしても、いざ選択する学年になってみなければ、ゼミが開講されるかもわからないというのは無責任な気がしました。

 

自分の興味関心をもっと深めたいと思い入学してきた学生たちが、学内の事情でできないという現状をどう考えるべきでしょうか。筆者が入学して感じたのは、入学した学生にはあまり目が向けられないということです。

11月11日の朝日新聞朝刊では、文科省が今年度から始めた「全国学生調査」について、大規模大学に所属する学生からの回答率が低かったことを指摘するとともに、大規模であるがゆえに学生へのコミットとも低くなっているとも述べられていました。また、学生満足度が高い大学には小規模校も少なくなかったとの指摘もあります。

少子化が進行する現代社会において、学校運営に関わる私学助成制度を十分に受けるために大学が一定規模を目指すことはやむをえない傾向であるのかもしれません。

しかし、いわゆるマンモス校では、今回のゼミ選択や科目抽選など人数が多いせいで納得できない部分も少なくありません。これから受験を考える高校生に向けて、魅力を伝えるための様々な取り組みが打ち出されるたびに疑問が増えてなりません。

 

小規模校でも満足度が高いのは、入学後も学生目線で支援を続けてくれるからでしょう。自分たちの高い学費は一体どこに使われているのか、在学生に十分な還元が振り向けられているとは思えません。

 

「教育機関」として大学を捉えるならば、現状の効率性偏重は見直す必要性があるでしょう。どうせ大学生は遊んでいるだけなんだからと決めつけるのではなく、このような様々な問題と向き合いながら日々学生生活を送っているのだということを知っていただけたらと思います。

これからますます子どもの数は減っていきます。その中で、学校として存続していくためには何が必要なのか、教育ビジネスの視点からではなく、教育的な視点で考えてもらえたらと思います。

 

参考記事

朝日新聞 11月11日付朝刊(大阪13版)21面 「ひらく日本の大学 朝日新聞・河合塾共同調査 少子化時代の在り方 中教審答申に学長の評価は」