誰の命が守られるのか 移民税関捜査局発砲事件から考える

2026年に入り、アメリカで移民を取り締まる移民税関捜査局(ICE)の職員が市民に発砲し、死傷者が出る事件が繰り返し報じられています。当局は、正当防衛や治安維持を理由に発砲の正当性を強調していますが、目撃証言や映像記録から疑問とする声も上がっており、事件の評価をめぐって社会の意見は大きく分かれています。

2001年の同時多発テロを受けて設立されたICEは、不法移民の摘発や国外退去を主な任務とする組織です。テロ対策や治安維持を名目に強い権限を与えられてきた一方で、その活動はしばしば過剰だと批判されてきました。特に問題視されているのは、移民を一律に危険な存在とみなし、強制力の行使を前提に接する姿勢です。この構図の中では、移民一人ひとりの生活や人権よりも、取り締まる側の安全や国家の秩序が優先されやすくなります。

ミネアポリスで起きた事件も、発砲の正当性が形式的に説明される一方で、撃たれた側が置かれていた状況や、なぜそこまで強い力が必要だったのかは、十分に検証されていません。ICE側は、射殺された人物が車で突っ込んできた、あるいは武器を所持しているように見えたと主張し、職員の身を守るためのやむを得ない措置であったと説明しています。しかし、遺族や抗議する市民たちは、それが過剰な暴力であり、最初から相手を排除すべき対象としてしか見ていなかったのではないかと疑っています。

ここで問題となるのは、誰が危険であるかという判断が、常に銃を構える側の主観に委ねられている点です。目撃証言との食い違いが深刻化している背景には、事実関係の対立以上に、事実を認定する権限そのものが公権力側に集中している現実があります。

移民に対する強硬な取り締まりを支持する人々は、仕事が奪われるのではないか、犯罪が増えるのではないかといった不安を理由に挙げます。しかし、その不安の矛先が社会的に弱い立場にある人々の命や尊厳であるとき、特定の集団の命が軽く扱われる構造が固定化されていきます。

一方、移民側から見れば、国家は自分たちを守る存在ではなく、脅威として立ち現れます。法を守って生きようとしても、いつ摘発され、家族と引き離され、場合によっては命の危険にさらされるか分からない。この不均衡な状況が、分断という言葉では言い尽くせない深い溝を生んでいます。

国家による暴力は、しばしば「誰かの命を守るため」という理由で正当化されます。しかしその際に注目すべきは、どの命が守るに値すると想定され、どの命が危険として排除され得ると見なされているのかという点です。法律上は合法であったとしても、その運用が特定の集団に対して偏っていれば、国家への信頼は失われます。

誰の命が優先されるべきかという問いは、私たちが隣人とどう向き合い、どのような社会を築きたいのかという根本的なものへとつながっています。暴力が正当化される境界線をどこに引くのか。誰の命が守られ、誰の命が軽んじられているのか。その問いを共有し、考え続けることが、分断をこれ以上広げないための出発点になるはずです。

 

参考記事:
9日付 読売新聞朝刊(東京14版)9面(国際)「米移民当局 女性射殺 取り締まり中 『権力乱用』地元は反発」
23日付 朝日新聞夕刊(東京4版)8面(社会総合)「移民捜査官、5歳児を拘束 米ミネソタ、抗議の声広がる」
日経電子版「米ミネアポリスで連邦職員が男性射殺 移民取り締まり巡り衝突続く」,2025年1月25日

参考資料:
BBC NEWS JAPAN「【検証】米移民当局職員による射殺事件、目撃者の動画からわかること」,2025年1月9日