15日、東京・日本武道館で行われた全国戦没者追悼式に参列しました。今年は、令和初の追悼式として注目されていましたが、式典の流れは昨年と変わりませんでした。(昨年の様子は、あらたにす『「平」和を「成」した時代 最後の終戦の日』を参照)。
開式後、参列者は起立して天皇皇后両陛下を会場にお迎えします。お二人がご臨席されると、「君が代」の斉唱です。合唱団に所属する筆者は、声高らかに歌いました。
昨年、近くの席に起立も斉唱も行わない女性がいました。足が悪かったのか、それとも歌うことを拒んでいたのか。どちらかは不明ですが、周囲がみな立ち上がっている中、一人座っていた彼女の姿をふと思い出しました。
読売新聞(2018年7月30日朝刊)は、君が代の起立斉唱を「自国や他国の国旗・国歌に敬意を表する」こととして、拒む教員らの姿勢を社説で非難しています。2003年、東京都教育委員会は、式典で起立し国歌を斉唱することを教職員に義務付けました。職務命令に従わなかった多数の教員が処分され、命令の違憲性を争う訴訟が相次いでいます。その一例をとり上げ、「厳粛な式典で、教員らが調和を乱すような態度を取ることには到底、理解は得られまい」と述べています。
一方、朝日新聞(2019年5月5日朝刊)は、「君が代」を統合の象徴とする見方に疑問を呈しています。2011年には大阪府、2012年には大阪市でも起立斉唱を教員に義務付ける「国旗国歌条例」が定められました。府立高校の元教員が不起立で戒告処分を受け、定年後に再任用されなかった例を取り上げ、以下のように述べています。
「君が代は、大日本帝国憲法下で主権者である天皇の神格化を支えた。敗戦をはさみ国民に主権が移っても、君が代と天皇を関係づける声は根強い。君が代を国歌とした1999年の国旗国歌法の審議では、政府は「君」について「象徴天皇」とする見解を出した。新憲法は「思想・良心の自由」を保障している。だが、東京でも不起立を理由にした処分者が出た。」
個人的に、「君が代」斉唱は好きです。日本国民であることを再認識し、誇りを感じる時間だからです。世界中に様々な国歌がある中で、「日本国民として国歌を歌う」ことに喜びを感じています。だから、歌わない人の気持ちを理解することができません。
かといって、拒む人に歌うことを義務付ける必要があるのでしょうか。私が誇りに思う歌が、誰かにとっての「押し付けられた歌」であってほしくありません。歌は、心が込められているからこそ意味があり美しいのであって、強制するものではないはずです。
起立斉唱を拒むことが教育現場にどのような悪影響を及ぼすのか、私にはわかりません。ただ、歌いたい歌を歌いたい時に歌える社会こそ、平和な社会ではないのか。そんなことを考えながら迎えた終戦の日でした。
参考:
18日付 読売新聞朝刊(東京14版)37面(社会)「歓迎の国歌 トライ」