今年4月、脳死臓器移植のドナー(提供者)となった1歳男児の両親が岡山大学や執刀医、TBSテレビなどを提訴しました。TBS系で放送されたドキュメンタリー番組でわが子の臓器を放映され、精神的苦痛を受けたといいます。原告の両親は、記者会見で以下の問題点を挙げました。
①番組について事前に打診がなく、手術日などから我が子の肺とわかった
②わが子の臓器が映され、執刀医の言葉にモノ扱いされたと感じた
③患者家族による自分たちあての手紙の文面が受け取る前に撮影された
①について、個人情報保護の観点から、ドナーとレシピエント(移植患者)の情報が相互に伝わらないよう、臓器移植法の運用指針で求められています。移植を行う病院にはドナーを特定する情報はなく、日本臓器移植ネットワーク(JOT)を通じて連絡を取るしかありません。ですが、手術日を明確にしないなど、提供された臓器が誰のものかを特定できないようにする配慮はできたはずです。番組制作側には、その思慮が欠けていたのではないでしょうか。
②について、執刀医はドナーの肺を「小さいな」「もくろみ通り」「軽くていい肺」などと発言しました。ある移植医は、「患者の究明に全力を尽くしている移植医にとって、提供された臓器の状態が良好であることは最も留意する点。ドナーの尊厳をないがしろにするつもりはないと思う」と推し量ります。たしかに、医療の観点からすれば決して発言に悪意ある意図はなかったはずです。ですが、ドナー側にしてみれば、愛する息子の体をモノ扱いされることほど残酷なことはありません。そもそも、番組内でこの発言をそのまま取り扱う必要があったのでしょうか。
一方で、正反対の受け止め方をした臓器移植ドナーの遺族もいます。余命わずかだった女性が妹の肺を移植され回復する姿を偶然番組で目にしたそうです。
「感謝の言葉や元気になった様子がうれしくて、家族皆で泣きながら見ました。『ああ、選択は間違っていなかった』と思えたことは、心の支えになりました」
同じドナー遺族でありながら、受け止め方にこれほどの違いが表れるのはなぜでしょうか。
原告である母親は、臓器を提供した心境についてこう語っています。
「(息子が)この世に生まれた証しになるのではないか、それで助かる人がいるならという思いから決意した」
患者が元気になったのか知りたい気持ちもあったといいます。TBSの番組は、患者側の視点に偏り、ドナーのそのような思いをないがしろにしました。
報道の役割は、社会から見えにくいところに光を当て、人々に伝えることです。医療の現場をテレビ番組で取り上げること自体には大きな意義がありました。臓器移植の実情を知ってもらい共感を得られれば、新たな臓器提供者を増やし、より多くの命を救うことができるかもしれないからです。
でも、当該番組を見た人や原告の主張を耳にした人の中にドナーになりたいと思った人は、いったいどれだけいるでしょうか。臓器移植に対する印象を悪化させてしまっては本末転倒です。
さらに、原告の母親はショックから不眠や脱毛に悩まされたといいます。番組1つといえど、一人の人間を苦しみの底に突き落とす可能性があることがわかります。
大切なことは、どのように報じるかです。伝え手には、取材対象に対する誠意を片時も忘れないでいてほしいです。伝えた先に人々のより良い未来を望むからこそ、時に「マスゴミ」と非難を浴びても、時間と労力を尽くして、問題を訴え続けるのではありませんか。単なる野次馬精神では、目を背けたくなるような事実や心が痛むような現実に向き合い続けることはできないはずです。
時に誰かを守ることも狂わせることもできる影響力を自覚しつつ、報じる人のことを思いやる心を忘れないこと。それこそが、より良い報道とこれからのマスコミに求められています。
参考
28日付 読売新聞朝刊(東京12版)13面(解説)「ドナー遺族への配慮 重要」