日本国憲法において、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とある。幼いころから「天皇=象徴」という図式は当たり前のものとしてあり、「ハトは平和の象徴」が一般的な認識であるように「そういうものだ」と受け入れてきた。だが、これは天皇の「慰霊の旅」に代表される平和を追い続けた姿勢によって、私たちが「象徴天皇」の確たるイメージを持てるようになっただけなのかもしれない。
今年の1月2日。筆者は桜田門にいた。平成最後の記念にと、新年一般参賀に初めて参列するためだ。12時30分に並び始め、15時過ぎにようやく二条橋を渡った。皇居内に身を置いた約3時間ほどは、「象徴天皇」を実感した機会となった。
▲1月2日12:30 桜田門付近。荷物検査までここから1時間待った。
先日退位された先の天皇による最後の新年一般参賀ということもあり、平成最多の約15万4800人が駆けつけた。これほど多くの人数がただ静かに列をなし、大きなトラブルが起こることもなく、粛々と過ぎていく。どこか異様な空間に感じた。しかも入場料を取るわけでもなく、荷物検査にさえ通ればだれでも入ることができる。見ようによっては無防備にも感じられる場であるのに、そこには秩序がちゃんと保たれていた。
新潟からバスツアーで来た方、毎年来ている方、小さな子供を連れて家族出来ている方、外国から来た方。子連れが多い様子を見て、「勤労奉仕している者だけが来て良い、などの制限を設けてほしい」とどこか不満げな人もなかにはいた。それぞれ違う境遇にあり、異なる考えを持ってはいても、待つ間みな思い思いに天皇に心を寄せていた。
▲15:09 参賀会場にて。当初5回とされていた一般参賀は両陛下のご厚意により7回に増やされた。筆者は、6回目に参列した。
そしてお出ましのとき。「万歳」と「お疲れ様」のあたたかい声が、たくさんの日の丸の小旗と共に会場を包んだ。この瞬間、初めて天皇が「日本国民統合の象徴」であることを体感した。もちろん、日本全体でみると参賀会場にいた人数は、ごく一部でしかない。それでも、天皇が姿を見せた瞬間に会場全体が一体となった雰囲気こそ、「統合の象徴」の証ではないだろうか。
国民主権の今、憲法に定められた天皇制は廃止することもできる。それでも私たち国民は新たな天皇と「令和」の時代を歩むことを選んだ。今日は令和初の一般参賀の日。行くことはできなかったが、本当にたくさんの人が足を運んだようだ。天皇に対する意識を問われた時、昭和末期は「無関心」が最も多かったが、2018年は「尊敬」「好感」が上位を占めている。
しかし、これはあくまでも「天皇個人」に対してである。今朝の朝日新聞の記事を読んではっとさせられた。好感度が上がったのは、天皇が象徴天皇とはなにかを常に考え続け、行動して下さったからであろう。憲法1条では天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」とある。右翼団体「花瑛塾」を設立した木川智顧問によれば、象徴天皇制を維持するためには、天皇に任せるのではなく、主権者の私たち自身もあり方について考えていくべきだとあった。
筆者のように「そういうものだ」と天皇の存在を捉えてきた人はきっと多い。だが、新たな時代を迎えた今こそ、「天皇=象徴」の今後のあり方について、国民が主体となって考えていくべきなのかもしれない。
参考記事:
4日付 朝日新聞朝刊(東京14版)総合3面「象徴のあり方 国民の手に」