ピエール瀧騒動に見る「道徳」の暴走

薬物使用によるピエール瀧被告の逮捕以降、関連作品の自粛は止まらない。朝日新聞朝刊の「耕論」では、「作品には罪はない?」と題し、今回の自粛騒動に対する3人の有識者のオピニオンが掲載されていた。

ピエール瀧被告が出演する映画の公開に踏み切った東映の多田憲之社長は、「江戸時代の五人組や戦時中の隣組のような、連帯責任と相互監視のようなものを連想してしまいます」と自粛の嵐への思いを率直に語っていた。また、社会心理学者の碓井真史氏も「『世間の空気』というあってないようなものを読み過ぎて何もかも無しにするのは、自粛ではなく『萎縮』です」と自粛ムードに批判的であった。

唯一、肯定的であった教育評論家の尾木直樹氏は「公開を称賛する声もありますが、そこに見える大人の薬物への鈍感さや、依存症に対する無理解に、僕は憤りを感じます」と痛烈に自粛反対派を批判していた。

私はこの「耕論」が自粛反対派2人、賛成派1人で構成されているように、自粛に異を唱える人々は決して少数派ではないように思う。実際、私の周りでも、今回の異常なまでの自粛について疑問を覚える者は多く、賛成派はあまり見かけない。では、なぜ、多くが違和感を覚えながら自粛を止める事が出来ないのか。それはピエール瀧被告を擁護することが、「道徳」に反するからだと考える。

「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」という言葉にも象徴されるように、私たちは、覚せい剤を使用することが犯罪である以上に、「道徳」に反するという認識を持っている。この「道徳」という存在は非常に厄介で、自由自在に「不道徳」なものを見つけては断罪していく。

例えば、太平洋戦争中、日本社会では「非国民」という言葉で、「聖戦」に反対する「不道徳者」を抑圧した過去がある。そのように、「道徳」は「不道徳」とみなしたものを次々と社会から排除する傾向にある。また、「道徳」は、日本のようなムラ社会では絶対的な力を持っており、それに抵抗することはかなり難しい。

今回の自粛騒動も、絶対的な「道徳」による「不道徳」の排除という構造が背景にあり、そのために誰もこの自粛を止めることができないのではないか。

「道徳」は社会の秩序を保つ上で、不可欠であるのは自明の理である。しかし、「非国民」という言葉を生み出したように、「道徳」は時に暴走して社会を不寛容にしていく危険性がある。私たちは、このことを胸に刻み、今回の自粛騒動と冷静に向き合っていく必要があるのではないだろうか。

参考記事

11日付 朝日新聞(大阪本社版)朝刊13版 11面(オピニオン)「耕論 作品に罪はない?」