「頭」鍛える必要性

皆さんは体育の授業や運動会、部活動が好きでしたか。筆者は大嫌いでした。スポーツはあまり得意ではないですが、それは関係ありません。あの独特の「雰囲気」に違和感を覚え、どうしても好きになれませんでした。筆者の感じたあの雰囲気は何なのでしょうか。今日はその理由を探るべく、日本の体育教育について考えていきたいと思います。

 

規律重視は兵士養成のなごり

 

一橋大学教授の坂上康弘氏はこのように指摘しています。戦前の体育教育は兵士養成や国民の身体管理を目的としており、戦後もその名残で集団主義や根性論が残ったというのです。筆者の感じた「雰囲気」はこれに起因するような気がします。旧日本軍の精神を引き継ぎ、皆で同じことだけをこなし、出来ない理由を分析するのではなく、諦めずにひたすらやらせることが当然と感じ、誰も異を唱えない空気。これに対して非常に疑問を感じていました。

教員にとっては、筆者のようなひねくれた人間よりも、言うとおりに動いてくれる方が指導しやすいことは間違いないでしょうし、根性を全否定した結果、何事もすぐに投げ出してしまうようになってしまうことへの懸念もよく分かります。しかし、学校教育の目的はそこではないような気がしてなりません。

義務教育の目的を広く言えば、「人間教育」ではないでしょうか。学校内での学びを通して、人として必要な素養を身に付けていくことが目的ならば、集団における協調性や継続力ももちろん大切だとは思いますが、それだけは指導者の「傀儡」になりかねません。自分の頭で考える「自主性」も生きていく上ではとても重要なことだと考えています。大人の言うとおりに生きていれば、簡単ですし、それなりの「幸せ」を享受できるでしょう。でも、たった一度きりの人生において、何一つ自分の考えで決められない人生は本当に「幸せ」なのでしょうか。

多少苦しくても、自分で考えて行動する力は、働く上でも役立つでしょうし、人生の選択肢を増やすことにも繋がるのではないでしょうか。そのように考えると、現在の体育教育に見られる風潮は必ずしも肯定できるものではないと感じています。

社会に出れば、手取り足取り教えてくれる先生はいません。先生がいなければ何も決められない大人を大量生産するのが公教育の目的ではないのなら、体育に限らず、公教育全体のあり方を考えていく必要があると感じています。心と体だけでなく、「頭」を鍛える必要性がある中、体育教育のあり方は日本の公教育の将来像を考える「スタートライン」になり得るのではないでしょうか。

参考記事:本日付朝日新聞(東京14版)17面 耕論 「体育で何を鍛えるか」